弟子になること|キリストが私の隣人になってくださったから

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教会総会が終わった。「昨年度の私たちの働きを振り返りつつ神の支えと導きの出来事をしっかりと刻むことで、未知なる今年の歩みにも希望をいただけると確信をもって歩みだす」、教会の総会にはそのような意味がある。その中でも主題とする聖句を定めるのだが、市川教会では2年間同じ聖句を掲げる。今年から2年間の聖句は、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)であるが、「わたしの弟子=キリストの弟子」とはどのような存在なのだろうか。

狭義にとらえれば、マタイが後述しているように「洗礼を授ける、即ちキリスト者になる」ということであろうか。しかし、後に12使徒と呼ばれることになる最初の弟子たちのことを考えると、彼らは洗礼を受けて弟子になった訳ではない。どんな出会いがあったかも大半は聖書に記されていないが、4人の漁師と徴税人マタイについては福音書に記されている。そこに記されているのはイエスが彼らの「隣人になってくださった」ということだと理解できる。だから、キリストの弟子になるとは、「キリストが私の隣人になってくださったように、私も誰かの隣人になる」ということにほかならない。

私たち日本福音ルーテル教会は、アメリカの宣教師たちの働きから始まるのだが、彼らは「宗教・教育・慈善事業」という三様態の宣教体を描いて日本での宣教を行おうとしていた。その結果、当初から学校や施設の働きにも力を注いできた。その働きは、あらゆる場所で「隣人になろうとする働き」であったと言えるだろう。ただし、構造体として一つになることはなかなか適わず、宣教110年を経てやっと法人会連合(宗教法人・学校法人・社会福祉法人)を結成し、「隣人になろう」とする力を結集したばかりである。それぞれの働きが常に、キリストに託された使命、即ち「弟子にする=隣人になる」ということに誠心誠意注がれんことを願うばかりである。

主題聖句を頂いて歩みを始める私たちの日常で、「隣人になる」とはどういうことだろうかと考えあぐねているさ中、「節分・恵方巻」の話題、終われば次はバレンタインデーの話題と賑やか。それはキリスト教的で、あれはそうではない等と言わないで、友人・知人や家族と大いに楽しんだら良いと思う。隣人になるとはそこから始まるからだ。ただし、「拝する行為」に関してだけは、毅然として拒否することも大切なことと覚悟しておいてほしい。何故なら、「それにひれ伏し、それに仕えてはならない」と十戒にはっきりと記されているからである。さぁ、隣人になるために出掛けよう!

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