祝福の記憶|祝福は神様からの贈り物
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「神様からの祝福です!」と一人ひとりに声を掛けながら、小さなウェーハウスを手渡す。保育園の小児祝福式の様子である。コロナ禍で二年間、食べ物の手渡し行為を避けてきたために実施できなかったが、今年はビニールの使い捨て手袋使用の上で行うことになった。小児祝福式そのものは聖書にはないが、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10:14)という聖書の具体化として行われる。市川教会及び関係する保育園で11月に行われるのは、恐らく「七五三」を意識してのことだろう。保育園で小さなウェーハウスをあげることにしたのは私が赴任してからである。「牧師先生から祝福の徴をもらった」という記憶が残ってくれたらという思いから始めたのだ。
イエスがガリラヤ湖畔で大勢の群衆に何か食べさせたいと弟子に提案した時、「パン五つと魚二匹」を持った少年からそれを預かり祝福すると、人々が満腹した上に、残ったパンを集めると12の籠が一杯になった。(ヨハネ6:1〜15)少年は何故パンや魚を持っていたのか。自分から差し出したのか。持っているのを見つかり求められ仕方なく差し出したのか等々、想像をかきたてられる話である。私の解釈は、「おばあちゃんに届ける途中、大勢の人が集まっていたので、何だろうと一緒について行った。そしたらお使いのパンと魚を懇願されて仕方なく差し出した。すると不思議なことが起こった」というものだが、もちろん定かではない。とはいえ、少年の記憶には何が残っただろうかと想像するのは楽しい。 (ただし、少年について記載しているのはヨハネ福音書だけだが…)
話しを保育園の小児祝福式に戻す。子どもたちに手渡ししている際、式服に気が散ってしまった時に、一人の園児に手渡ししなかった。私は気付かなかったが、礼拝後「Y君がもらえなくて泣きそうだった。慌てて後ろに連れて行って、もらえるようにした」と報告を受けた。申し訳ないことをしたと思いつつも、その日は帰宅。しかし、どうにも気が済まず、二日後に保育園に行った際にY君に直接「ごめんネ」と謝ってきた。とはいえY君の心に、もし今年の祝福式のことが記憶に残ったとして、祝福ではなく通り過ぎられたことが残ったとしたら、辛いなぁ…。
祝福されてアブラハムはイスラエルの父祖となった。祝福されたから、ヤコブは兄エサウを差し置いてイスラエルの父祖の列に連なることができた。そして今、私たちも礼拝の最後に祝福されて一週間の歩みに向かう。祝福の記憶こそが、私たちにとって神様からの最大の贈り物なのである。