そして今も
死んだ方の顔などを触り、そのとてつもない深い冷たさに驚いたことはありませんか?私はあります。「死ぬってこういうことなんだなぁ」って、いまだにその手の感触は覚えています。
死んだ方の顔などを触り、そのとてつもない深い冷たさに驚いたことはありませんか?私はあります。「死ぬってこういうことなんだなぁ」って、いまだにその手の感触は覚えています。
「私は自分を大切にしているのでしょうか」と思わず考えてしまいました。ましてや私はいつも「心を尽くして、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神様を大切にしている」のかな?と思いました。でも逆に神様は私のことを「心を尽くして、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして私たち一人ひとりを大切に...
神様から憐(あわれ)みを受けている人と受けていない人がいるのでしょうか?では、どうすれば憐れみを受けられるのでしょうか?たくさん祈っている人とか、誰から見ても人に親切だしやさしい人だから神様からたくさん憐れみを受けているのではないかと思われるかもしれません。しかし、そのようなことはありません。神...
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「マタイ9:35-38」において、イエス様が語られておられるみことばは「働き手が少ないから神様に催促をしようよ」と言われているようにもとれて、「ずいぶんイエス様も強引な方だったんだなぁ。」という印象を持ちました。しかし、その前の箇所にある「飼い主のいない羊のような」...
私たち一人ひとり、いつでもどんな時でもどんな場所でもできることがあります。それは人を思うことです。心配することや妬むことや恨むこともできますが、心の中心に神様を置いて自分の思いを神様に委ねるのなら、その願いや思いは心配や妬みや恨みではなく愛に変えられるのではないでしょうか?
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「マタイ4:23-25」の最後の文章に「大勢の群衆が来てイエスに従った」と書かれています。イエス様に従うとはどういうことなのでしょうか。イエス様に直接会うことができない現代に生きる私たちは、イエス様に従っていないのでしょうか。「従う」ということは「ついていく」という...
詩編90編 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。 山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々...
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編37;23-29」は、神様である私たちの主への信頼を詩っております。私たち一人ひとりの神様への信頼は、私たちから起こったものではなくて、もうすでに神様が私たちを信頼して下さっているという安心感からの信頼です。私たちが信頼したから神様が私たちを信頼して下さったの...
今、ご一緒にお読みいただいた聖書の箇「エフェソ2:11-13」において「異邦人」という言葉が出てきます。「ん?何だか聞き慣れない言葉だし、ちょっと差別的だな。」と私は感じましたが、皆さんはどうでしょうか?この言葉は皆さんと礼拝の中で歌っている「ヌンクディミティス」の中にも出てきます。一昔前に流行った歌謡...
「今朝はイエス様のお話を聴いたから、一日私は良い行いができるわ。」と張り切ったとしても自分の理想通りに動けなかったり、思っていたような結果が出なかったりして、「やっぱり今日もダメだったわ」とか「私ってやっぱりダメね」と思ったりしたことがあるのではないでしょうか。自分のせいにしないですべてを周りの...