神様と一緒だから大丈夫
いつも私たちが体験したり、見聞きするような大地震などの自然災害を、前もってわかっていれば。。。と何人かの方は思われるでしょう。 今、ご一緒にお読みしました聖書の箇所においても、イエス様に弟子の何人かが聞いています。
いつも私たちが体験したり、見聞きするような大地震などの自然災害を、前もってわかっていれば。。。と何人かの方は思われるでしょう。 今、ご一緒にお読みしました聖書の箇所においても、イエス様に弟子の何人かが聞いています。
このようにお一人お一人と出会い、挨拶を交わす「今」というかけがえのない「とき」が与えられていますことを感謝致します。 それと同時に、今もなお混乱のただ中にあるお一人お一人のことを覚えて祈るしかありません。
このように、皆さんと共にみ言に聴くときを与えられましたことを感謝しています。 帰る場所があること、それはかけがえのない喜びです。 皆さんと私、そして世界中の一人一人の帰る場所は同じ所です。 命を造られた所も同じです。同じ所から出発して同じ所へ帰ります。 お一人お一人の歩みも、人生も、寿命も、違い...
私たちが今生きている世界って、とてもとても大きく感じることもあれば、 とても小さく感じることもあります。 自分自身の存在もとても大きく見えたり、小さく感じたりします。 でも、実際の大きさは変わりません。 変わるのは自分の持つ価値観です。 その価値観も自分がいる環境や状況、年齢でも変わって行きます...
「えっ、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。 初めてみ言に出合われる方も 「そんなにイエス様っていつもご自分の身を隠されておられたのかしら」 「イエス様の正体を暴くためにユダは合図を決めたのかしら」 と思う方も少なくないと思います。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所はエルサレム入城」ともいわれ、 イエス様がその時代にユダヤ教で大切にされていた行事に参加されるために歩んだと語られる箇所です。 昔の日本でいうお伊勢参りに近い宗教的行事だったと理解しています。 そして、このイエス様のエルサレム入城は、 いわゆる十字架への道を...
「こんなはずではなかったのに」と、自分が予想もしていなかった結果に びっくりしたことや後悔したことはありませんか。 私たちは物事の結果に期待して、行動することが多くあります。 自分がこのように行動していこうと希望を持つことは、 相手がこう行動するだろうと期待してしまうのとは違います。
「おまえは嘘つきだ。さっき違うことを誓ったじゃないか」 こんな風に言われたり、人からなじられたことはありませんか。 私はあります。 幼い頃,兄弟から怒られ、最近では自分で自分自身を責めました。 こんなこと人間にはたくさんあるんだからしょうがないじゃないか、 と思う方もおられるかもしれません。 そ...
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、「最後の晩餐」と題されていて、 有名な画家の絵の題材にされたりした箇所でもあります。 聖書に書かれている通り、イエス様がいよいよ十字架に掛けられようと、 捕えられる前に最後に行った弟子たちとの夕食の場面です。 これは、今も行われている聖餐式の初まりでもあ...
私たちはいつも、私たち一人一人のために、 キリストイエスが十字架の苦難の先の、命への道を歩まれておられることを 思い返す日々を共に歩んでます。