見えなくても
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
まだまだ寒いですが少しずつ日差しも変わってきて、野の草や花が芽吹き始めています。
幼稚園や小学校などいろんな所で卒業式が行われる季節が近づいています。
4月には学校や会社で入学式や入社式が行われます。
私たちは別れも経験しますが出会いもたくさん経験します。
人との出会いや自分との出会い、様々です。
その中に神様との新しい出会いも与えられます。
しかし、不思議な事に神様との出会いが与えられても、神様との別れはありません。
私が忘れても神様は私をいつも覚えていて、一人ひとりを愛して下さいます。
そして私が神様を知る前から、神様は一人ひとりを知っていて下さいます。
なぜなら、私たち一人ひとりの命は神様によって造られ
今、神様によって愛されているからです。
どんな自分でも神様に愛され守られている今をそのまま生きる自分でありますように。
これから語られます神様あなたからのみ言、この語るものを通して
神様、あなたがここにおられるお一人おひとりへとお語りください。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によって御前におささげ致します。
アーメン。
「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛された。」
「あなたを愛している」と言われて、「はい、そうですか。ありがとう」と言える人はいらっしゃるでしょうか。それより「どのくらい私を愛してる?」と聞いてみたり、「証拠を見せて」と言ってみたり、いろいろな反応があるのではないかと感じます。それは「愛」というものには形も色もなく、「私が信じる」ことがないと愛の関係は成立しないからです。
神様も見えません。愛も見えません。人の心や命も見えません。私たちの周りにはたくさん見えないものがあって、それらの見えないものも信じていなければ生きられません。なのに、いかにも見えるものや分かるものでなければ信じられないと思ってしまうのも私たち人間です。「子供を産んだことがないから、神様の愛の大きさなんてわからないわ」って私も言ってしまうかもしれません。ただ、私にも「命」があります。
前回、私が担当させていただいた聖書の箇所は「イエス様を十字架につけろ」と叫ぶ人々の様子が語られている箇所でした。そして今回、与えられた箇所では神様の愛の深さを私たちに語られています。見える形での「処刑」、見えない「命」、そして与えられている「愛」。
見えるものや見えないものがたくさん与えられて、私たちは今を生かされています。それらに感謝して歩んでまいりたいと思います。