大好きだよ

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祈り)

天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは神様、あなたにたくさんのもの、たくさんのこと、たくさんの恵みを与えられています。
その一つ一つの恵みは始めからある、当たり前の物事であるかのように過ごしています。
ふと一つ失ってしまう時、痛みや悲しみを伴い、神様に思いをぶつけます。
「どうして?」「なぜ?」と。
しかし、神様はそのような私たち一人一人のどんな心でも「ありがとう」と受け止めて下さいます。
どんなに醜く見せたくないと思うような心でも、受け止めて下さる神様に心を向けられる私でありますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、
み言から聴くお一人おひとりへ、そしてお一人おひとりの心にあるお一人おひとりへと
神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのみ名によって、み前にお捧げ致します。

アーメン

【参照聖書箇所:マルコによる福音書14章27〜31節】

たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。(31節)

「ねぇ、本当?」そのように言いたくなるような言葉が弟子の口から語られます。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』(マルコ14:31)でも、イエス様は問いません。弟子のその時の気持ちを大切に思われるからです。ただ、静かに弟子がその後どのような態度を取り、どのようなことが起こるかを語られます。その結末を語られるからイエス様はすごいな、と私たちは思うことだけには留まらず、それでも弟子たちの「本気」を受け止め、それでも逃げてしまう「ありのままの弱さ」を愛されるイエス様が、一人ひとりを大切にされている心の深さを感じることができるのではないでしょうか。弟子の一人として、聖書の中ではペトロさんの言葉や行いとして語られますが、決してペトロさん一人の言葉ではありません。

私は聖書からこの言葉を聴いた時「あっ私の本気だ」と思わされ、イエス様から逃げてしまう現実があるな、と思うと同時に、それでもイエス様に赦されて生かされている今があることを思いました。そうです、今聖書から語られる弟子の言葉は、あなたの言葉でもあります。あなたもイエス様を本気で信じ、本気でイエス様から逃げます。それでもイエス様は、あなたを信じ、あなたを大切にされ、あなたにいつも寄り添って下さいます。

どうしてでしょう。それはあなたが大好きだからです。一人ひとりは、神様であるイエス様にとってかけがえのない大切な存在です。だからイエス様は言われます。「大好きなあなた、私はあなたといつも一緒にいる。安心していなさい、大丈夫だから。」

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