祈り

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
「あの人は目覚めていないよ。」「この人はちゃんと目覚めているよ。」
と誰かが自分の基準で、目覚めとはこう言うものだ、と決めることはできません。
誰かが違うと思ったとしても、神様あなたに与えられる目覚めは目覚めなのです。
誰かと比べたり、何かの基準で自分を追い詰めたり、
私たちは何に追われているのでしょうか。
いつも私に「あなたはそのままでいい」と、私のそのままを受け入れて下さる神様、
あなたに私の心を向けることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、
み言から聴くお一人お一人へ、そしてお一人お一人の心にあるお一人お一人へと
神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのみ名によって、み前にお捧げ致します。

アーメン

【参照聖書箇所:マルコによる福音書9章14〜29節】
イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。(29節)

弟子たちはイエス様に「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた時、すぐに「何言ってんですか、私たちはちゃんと祈りましたよイエス様!」と言いたかったかもしれませんが、聖書にはそのような弟子たちの言葉は載っていません。また「お前たちは何をやってるんだ、私の弟子なんだからちゃんとしなさい。」とイエス様が言われているわけでもありません。「どうすれば良かったのですか?」とイエス様に聞いた弟子たちに、イエス様は静かに「祈りが必要なのだよ。」と答えられるだけです。

「祈り」とは何でしょうか。「祈り」が叶ったから神様を信じるのでしょうか?いいえ違います。神様を信じているから「祈る」のです。病院で知り合っていつも仲良くしていた50代の友人が亡くなったときのことです。私はその友人が具合が悪くなって入院されたと聞き、毎晩のように「おやすみ」と「お祈りしています」と携帯のメールに送り続けました。ある日、友人から「いつもお祈りしてもらってるのに、ちっとも良くならないのは何で?」と返信があり、友人がとても追い詰められて、苦しいことが手に取るように私に伝わって来ました。このようにしか私には返信出来ませんでした。「◯◯さんが願っているようにはならないかもしれませんが、◯◯さんを大切にされている神様に私は祈っているから大丈夫だよ。」今となっては、私より先に神様の御もとへと逝かれておられる友人のほうが神様から答えて頂いていると思うのです。

「祈り」とは、神様がお造りになられたすべての一人ひとりを神様が大切にして下さっていると信じるから、神様に心を向けてすべてを委ねることなのです。決して、神様に「ああしろ」「こうしろ」と命令することではありません。

神様は大切なあなたに今、何が一番必要かご存知です。ただ、あなたがご自分に心を向けて祈ることを、神様は待たれておられます。