必ずあなたのすぐ傍にいるから
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
私たちは自分の感情や思いがストレートに相手には伝わらないように、表情や態度を作ってしまうことがあります。
それが相手のためだと思って行う時も、自分のための時もあります。
しかし神様、あなたは私の全てをご存知です。
私の感情をほじくって傷つけるのではなく、また私が悲しんでいたり、辛い時も見て見ぬ振りをするのでもなく、
ただ私と共にいて、私の「時」を一緒に待って下さいます。
そのようなあなたが、いつも私と共にいて下さることを感謝できますように。
これから語られますみことば、この語る者を通して今、
みことばから聴くお一人お一人へ、そしてお一人お一人の心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのみ名によって
み前にお捧げ致します。
アーメン
【参照聖書箇所 マタイによる福音書5章43〜18節】
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(44節)
「あの人のことを考えると夜も眠れないわ」と聞くと、私たちは「あの子はきっとあの人にぞっこんなのね、羨ましい」なんて思う方が多いかもしれません。では「あのことを思い出すと私は夜も眠れないの。」と聞くと、多くの人が、よっぽど怖い目にあの子は遭ったんだろうなぁなんて思うかもしれません。でも、どちらも「夜も眠れない」理由なんです。
愛の反対語は無関心だと言った方がいます。好きという思いも、怖いという思いも目には見えない大切なもので、無関心ではいられません。目には見えなくて、手では触れない大切なものにも人は心を奪われ、眠れなくなったり、怖くなったり、悲しく辛くなったりします。私たちが出合う敵は、目に見えるものとは限らないのです。
イエス様は、それら目には見えなくて手でも触れないものも、目には見えて手で触れられるものと同じように大切なものであると、私たちに語られます。でも、いくら大切なものであると言われても、眠れなくなったり、心配で心を締め付けられたり、毎日涙が止まらなくなったり、食欲が無くなったりして、目に見えて手でも触れるものまで、どうしようもなくなってしまいます。
自分には手に負えなくて、心が風船のようにパンパンになって破裂してしまう前に、風船から空気を抜くように、祈りをもって神様にお委ねしなさい、大丈夫だから、
とイエス様は言われるのです。「自分だけでは手に負えないもの」それは「自分を迫害する者」と変わりません。あなたはいつも心で受け止めている大切なものがたくさんあります。それは全てのものに無関心ではなく、関心があるということと同じことで、大切なことです。
しかし、自分だけではどうしようもないことはたくさんあります。生きているからこそ出合うたくさんのこともあるでしょう。その一つ一つに無関心になるのではなく、一つ一つにあなたなりに関心を持ち、背負い切れないときは神様に祈り委ねてもいいのです。いつもあなたのすぐ傍に、神様はあなたと共におられます。
だから大丈夫、祈りましょう神様に。あなたの心の中に抱え切れない時は。