導かれて

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祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
雨が降る日ふと、やっと紫陽花が嬉しそうに見えるな、と感じることがあります。
雨のイメージが涙や寂しさを感じさせることもあれば、恵みの雨や木々を潤す大切なものと思うこともあります。
このように神様あなたからの恵みは私たち一人ひとりの心や感情を映し出す時があります。
しかし、あなたからの恵みは多数決や強い人のためにとか、神様ご自身が都合の良い人にだけ与えられるものではなく、
すべての一人ひとりに与えられるかけがえのないものです。
神様あなたから与えられる恵みの中を感謝して歩む私たちにして下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章26〜30節】
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(26節)

「霊」に導かれるとはどういうことなのだろうか、と考えていたとき、私は数年前こんなことを言われて自分が考え込んだことを思い出しました。それはこのような言葉でした。
「僕らは神様の操り人形みたいだね」
「霊」に導かれるって神様の操り人形になると言うこと?何か違うけど上手く言えないな。

今、お読み致しました聖書の中で『「霊」自らが言葉にならないうめきをもって執り成して下さいます』(ローマ8:26)とパウロは語っています。あれ、そうなのかしら?私たちは神様が霊を使って操っている操り人形なのでしょうか。人形には意思も感情もありません。もしかしたら自分が考えるのも面倒で自分自身の存在を放棄してしまった状態のことを言うのかもしれません。例えてみるならば、それは自分が操る側の思い通りに操られてもいいと無関心な状態なのが操り人形です。

しかしパウロは「霊」の働きを伝える時に『弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが』とも語ります。「神様に祈る」のは私たちです。自分が何をしているのかわからなくて勝手にコントロールされて祈ってしまっているのではなく、私が神様に祈ろうとして霊の助けを受けるのです。「神様は絶対です」と盲目になることでもなく。神様の存在を、「えー本当なの?」と疑うことも「ありがとう」と感謝することも「あらっ本当」と驚くことも、いろいろ思われるのも神様です。自分に無関心にも神様に無関心にもならないのが神様と生きるということでもあり、その関心は自分にだけに閉じこもるのではなく自分の周りの人々へと広がって行きます。神様からの愛を私たちが受けて、受けた私たちがその愛を伝えて行くのです。だから私たちは決して神様の操り人形でも神様が私たちの操り人形でもありません。
なぜならば私たちは神様が関心を持たれて大切にされている一人一人だからです。

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