自分では分けられないもの
祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは今を生きています。これは事実です。
「こんなことうそならいいのに」と思うようなできごとが突然自分に降り掛かってくることもあります。
その現実を見ないふりをして逃げ回ることも、
なかったことのように記憶に押し込んでしまうことも私たちにはできます。
また、それらを今自分ができる範囲で受け止めて、乗り越えようとすることもできます。
どんな自分であっても、自分でさえ自分を見捨てたくなったとしても
神様は決して一人ひとりを見捨てることはしません。
そのように一人ひとりの存在を大切にされている神様を信頼できる私にして下さい。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。アーメン
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「ローマ8:1-11」において、「肉なる存在」と言われている存在と、「霊なる存在」と言われている存在は誰のことなのでしょうか。
それは私たち一人ひとりのことです。私たちは「肉なる存在」だけでも「霊なる存在」だけでもありません。肉と霊の両方からできています。だからといってどちらか一方だけが良いもので、どちらか一方が悪いものであるということでもありません。「肉なる存在」も「霊なる存在」も両方あって”あなた”という一人の存在なのです。両方の存在であるあなたを神様は愛して下さっています。
ここに一つの腕時計があります。これは私の誕生日に母からもらった大切な時計です。たとえどんなに汚れてしまっても、止まってしまったとしても大切な時計です。でも、他の人にとっては時計なんだから一分一秒でもくるったら捨ててもいいものになってしまいます。
もちろん人間と時計ではまったく違いますが。人間をロボットであるかのようにだけ考えてしまうと、少しでも速く、そしてより精密に動くことだけがいいかのように思ってしまい、その人の大切さや優しさ、存在する価値さえも見失ってしまうような気がします。それは「肉なる存在」としての人間と「霊なる存在」としての人間を割り切ることができない、また割り切る必要もないようなものであるかのようにです。
私たちが肉と霊を分ける必要はありません。必要なときに神様が分けて下さいます。一人ひとりの存在すべてを、神様にお委ねできますように。