いつでも待っているよ
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
温度の変化が激しいこの季節、自然や自分を取り巻くたくさんの変化を私たちは受け止めてます。
変化の中を生きている自分が、自分で予想もできなかった変化に出会うとき私たちは戸惑い悩んだりします。
しかし、その中にあっても変わることのない神様、
あなたからの愛が私たち一人ひとりを包んで下さっていることを思い起こして、
生きることができますように。
日々の糧と毎日の心の落ち着きを神様、あなたがお支え下さい。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
「……どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は詩いはじめます。「あなたにとって帰るところはどこですか?」と聞かれて、皆さんはどこを思い浮かべるでしょうか。昔の事を思い出してふるさとを思い浮かべたり、今いる家を思い浮かべたり様々かもしれません。誰かが「お帰り」と言葉をかけてくれるところ、それが自分の帰る場所なんじゃないかなっと私は思ったりもします。
立ち帰るという言葉を思うとき、それは昔を思い出す場所というようなイメージがわくのは私だけでしょうか。昔、お母さんが家で私が帰るのを迎えてくれたな、と思い出す人もおられるでしょう。個人的なことを言うと、私は物心がついた頃から両親が働いていたので、いわゆる「鍵っ子」。帰っても誰も待っていてくれている人がいなくて、たまに「お帰り」と自分に言ってあげることがありました。
でも私たちの意識の中にないとしても、すべての一人ひとりに帰る場所はあります。一人ひとりが思い出せなくても、待っていて下さる方がおられます。その方はすべての方に「お帰り」と言って下さいます。それは神様です。なぜなら、私たちが帰る場所、それは神様の御許(みもと)だからです。帰る場所があるとき、人は出発できます。歩き出す勇気が与えられます。「どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は祈ります。あなたには帰る場所があります。
神様がいつでも「お帰り」とあなたを抱きしめて下さいます。