遭遇する|神との意外な出会いから受ける恵み

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観光地で、住宅街で、ついには大学の構内でと、熊の出没のニュースが多数報道される。冬眠に備えた食料が山中で不足していることだけが原因でなく、「近年は熊の生息域が広がってきたこと、最近は狩猟が行われなくなったので人間を恐れず、その存在を気にしなくなった『新世代グマ』が増えたという部分もある」(imidasHP:坪田敏夫北大大学院教授、2012.1.より)という。熊の立場からすれば、出没している訳ではなく、「生活圏を広げたらそこに人がいた」ということだろうけど。童謡の「森のくまさん」では、出会って逃げたらクマさんが追いかけてきて、落とし物を手渡してくれ仲良くなるという話になっているが、現実はそうはいかない。それにクマさんと「出会った」などという気分ではなく、やはり「遭遇した」というしかないだろう。

神様と出会うことによって信仰の歩みが始まると云う。しかし出会ったことで、これまでとは全く違う人生が始まり歩み始めるとしたら、それは「出会う」ではなくて「遭遇する」ではないだろうか。自分の人生が全く想定外の歩みに招かれ、総じて肯定的に受け取ることができるとしても、時には「神様を知らなければもっと楽に生きられたのに」と否定的に思い悩むことすらある。士師ギデオンはミディアン人に収穫物を奪われるのを恐れて酒ぶねの中に隠れて小麦を打つほど憶病だった。しかし神様は彼に「あなたの力をもって(戦いに)行け」と言われ、彼は何とか逃れようとした。彼にとっては「神と遭遇してしまった」という気持だったことだろう。(士師記6章)ヨナは「悪を行うニネベに行け」と言われて、逃れようと逆方向行きの舟に乗った。しかし船は嵐に見舞われ、原因がヨナにあることを知られてしまった彼は「わたしの手足を縛って海に放り込むがよい」と言わざるを得なかった。彼もまた「神と遭遇してしまった」ことを嘆きつつ海に投げ込まれたことだろう。(ヨナ書1章)

では、何故神様は人間にとって想定外の道に招き導こうとされるのか。それは「目が見えもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」(1コリント2:9)からにほかならない。神様に遭遇したからこそ、人生を振り返る時に「困難はあっても良い人生だった」と言える筈だと、今私は感謝している。

ギデオンは13万5千人のミディアンの大軍を僅か3百人の兵士で打ち破り、ヨナはニネベの人々が悔い改めるのをみて神様の深い憐れみを知った。神様に遭遇してしまった私・あなたは、どんな恵みを頂いているか気付いていますか。