待つことの苦楽|待っておられる神
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「小さい命」をも育んでくださる神様への賛美の歌であるが、子どもたちと歌っていると、「もう直ぐ春だよ~」という自然の声が聞こえてきそうで、春を待つ楽しさも一緒に運んできてくれる気分になる。待つことは楽しい。春が来ることを知っているからだ。教会暦は待つことから始まるが、それが楽しいのは、主のご降誕が必ず来ることを知っているからだし、サンタさんは必ず来てくれるからだ。楽しみにしている行事や出来事は、必ずその日が来るから待つことを楽しいと思わせてくれるのだ。
だが、待つことは全てが楽しいとは限らない。来るか来ないか分からなければ、待つことは苦しく辛いことに転じることだってある。「放蕩息子」または「二人の息子」と称される譬(たと)えが聖書にある。「弟は父親から遺産を生前分与してもらい、家を離れたが、放蕩の限りを尽くして財産を失い、豚飼いにまで身を落としてしまってやっと我に返る。失意の中、父親への詫びの言葉を繰り返しつつ家に向かっていると、『まだ遠く離れていたのに』父親が息子と気付いて駆け寄ってくる。家に連れ戻り宴会を開いていると、兄が妬(ねた)んで腹を立てるが、父親は『死んでいたのに生き返った』と兄を諭す。」(ルカ15:11~32要約)この話の核心は、「遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ駆け寄る」という部分にある。父親が息子を見つけたのは、たまたまそこを通りかかったという事ではない。父親はほとんど毎日、息子が家を出て行った方を見渡せる所(峠?高台?)で、「困っていないか、ちゃんと食べてるか、傷を負うようなことはないか」と案じ、いつか帰ってくるのではと息子を待ち続けていたからだ。当てもなく待ち続けることは辛く苦しく、そして悲しみが絶え間なく襲い来たことだろう。それでも待ち続ける、それが神様が私たちへ向けられたメッセージであり、聖書の全てなのである。
「早く、早く」と急かしながら過ごしていた子育ての日々。成長する子どもたちを親の都合に合わせるのではなく、聖書の父親のように待ってあげられたらと昔を振り返りつつ思う、でも既に遅しだが。
そろそろ庭のフキノトウが顔を出す頃だ。今年も美味しく頂けることを期待して、フキノトウの出現を毎日楽しみに待つとするか。