受援力|助けてと言っていいんだよ!
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「医師で、神奈川県の県立保健福祉大教授、吉田穂波さん(51)は話す。『プライドとか、自尊心とか、誰でもありますよね』▼6人の子どもの母親として、多くの人に助けてもらってきた。ありがたさは痛感している。でも、だからこそ思う。誰でも困った立場になれば、すぐに救いを求めることができる社会であってほしいと▼東日本大震災のとき、避難所で妊婦の被災者から申し訳なさそうに言われた。『私なんか、命があっただけましです。どうか他の人を助けてあげてください。私はいいんです』(この段要約) ▼人間とは限界近くまで窮すると、かえって誰かに頼れなくなるものなのか。助けてと口にすると、その瞬間、頑張っていた何かがポキリと折れてしまうからだろうか。以来、吉田さんは自著や講演で頼む力の大切さを呼びかけている。『頼ることは相手を信頼し、尊敬する証しです』」(1月8日朝日新聞「天声人語より)
教会に通うようになり、数か月後に夏の高校生キャンプに初参加した時のことを思い出した。そこで車椅子で過ごしておられる方の話を聞く機会があった。「私たちは助けてもらえなければ生きていけないのです」と笑顔で話してくださったが、両親からも、そして学校でも「自分で何でも出来るようになること」を教えられて成長してきた私には、とても驚きの言葉として響いたことを。
その後、紆余曲折を経て牧師として歩みが始まり、「主は我らの助け」(詩編33:20他)であることを伝え、その働きに私も連ならせていただいていると信じて歩みを続けてきた。今思えば、それは自分を「助ける側」に置いた、とても傲慢な姿ではなかったかと思えてならない。そんな私は25年前市川に赴任して、施設のチャプレンの働きも始まり、理事長の務めも担うことになり、私は徐々に知らされた、人は皆、助けられて生きているということを。勿論、そこには私も含まれる。出来ることもあれば出来ないことだってあるのだから。先の天声人語は「▼受援力。『私なんか』とつぶやく人の励ましになるなら、そんな言葉も確かにいい。重い障害があった俳人の新年の一句が頭をよぎる。〈初鴉『生きるに遠慮が要るものか』〉花田春兆。」と締めくくられている。遠慮せず信頼し「助けて」と言ってみようではないか、心が少し楽になるはずだから。
間もなく定年退職の時を迎える。その後は少し牧師不在の教会でお手伝いできる機会も与えられている。でも、私は思っている、「助けて」と素直に言える「おじいちゃん牧師」で新しい地に向かおうと。