何を知っているか|神様は知っていてくださるから

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以前、保育園の子どもたちに、「牧師先生、それ(襟カラー)ってどうなってるの?」と聞かれたことがあった。私は「これ、ここにくっついて離れないんだよ、無理に引っ張ると首が締まっちゃう」と笑いながら襟カラーを引っ張り、その瞬間に「グェ~~」と苦しそうな顔をして見せた、勿論冗談で。ビックリする子どもたちに種明かし。着脱が簡単なハーフカラーなので、「これ、本当は直ぐにとれるんだよ」と言いつつ襟カラーを外して見せると、子どもたちも安心したようであった。ともあれ子どもたちは何も説明しなくても「襟カラーの人は牧師先生」と認識してくれている(筈だ)。

施設の働きが多い私にとって、襟カラーは便利な制服だ。初対面でも何も言わずに「牧師」と認識してもらえるからだ。以前、法人の理事長の時、ある役員に言われた、「牧師なんだから、何処に行くにしてもカラーを着けて行って欲しい」と。「何処にでもカラー姿で行くことで、『キリスト教を土台とした法人』と知ってもらえる」という意味だと受け取り、以後私はどんな時もどんな所でもカラー姿で向かうことを常としていた。それによってどれ程の効用があったかは定かでないが、少なくとも「誰がどのようにして、どんな思いで設立した法人だ」などと説明する時間が軽減されたことは事実であったし、交渉の場では私が牧師であるということだけ知っていただければ、それで十分だったからである。職場に限らず、家庭においても、人と接する全ての状況において大事なことは、全てを知ることではなくて、その人と共有できること、共有していることは何かを知ることなのだと思う。保育園の子どもたちにとって、私たちの牧師先生は「お髭のおじいちゃん」ということだけで十分なように。

エレミヤは「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」(エレミヤ1:5)と告げられ当惑した、「わたしは若者にすぎません」(同1:6)というのが理由であった。しかし結局彼は40年間預言者として働き、民からの反感を受けたり、エジプトに連れ去られてしまうという悲劇に見舞われた生涯であった。それでも彼が働き続けるられたのは、「あなたを知っていた」という神の言葉であった。「神のみは全て(善も悪も)を知っていてくださる」、この一事があったからこそ逆らう民にも寄り添おうとする力を得られたのがエレミヤだったのだ。

全てを知ることよりも、共有できることを諦めずに探し求めることで、家族と友人知人と、そして子どもたちと共に生きていきたい、「あなたのことはわたしが全て知っている、だから安心して行きなさい」との神の言葉に支えられて。

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