キリストの香り|金木犀が教えてくれたこと
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玄関を出ると、金木犀のほのかな香りが…、10m程先の教会庭の金木犀が咲いたのだ。「秋だなぁ~」と呟きつつ、空を見上げると「秋天一碧」(シュウテンイッペキ:見渡す限り青空で、雲一つない空の意)。ふと思い出した、昨年死んだ愛犬と散歩に毎日出掛けていた公園への道にも金木犀が咲いていたこと、リードを持ちながら思わず金木犀を見上げ、甘い香りをしばらく嗅いでいたこと、そして金木犀の香りがすると秋も深まりを増すことを散歩しながら肌で感じていたことを。そういえば、金木犀の香りを久しぶりに嗅いだ気がする。それもその筈、昨年も一昨年も、自宅以外はマスクの日々、外気を直接吸うことも嗅ぐことも、季節の移り変わりを楽しむ心の余裕も無かったので、せっかくの金木犀の芳香にも気付かなかったのだ。マスクを外せば、四季折々の香りを楽しめ、天地を創られた神の香りもしてくると金木犀の香りが教えてくれている。
「キリストの香りのする施設・働き」と言っておられたのは、私の受洗牧師故U先生が老人ホームの理事長をしておられた時に話してくださった言葉である。私も教会関係施設の理事長をしていたこともあって、若年牧師を心配して「牧師が理事長を務めるということはどういうことか」を話してくださったのだろう。財力はないし福祉のスキルも乏しい私にできることは、働きを通して「キリストの香り」を放ち続けることだけであったことは確かであった。
聖書には次のような1節がある。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5:2)キリストは世を、人を愛してくださったように、私たちも同じ振る舞いをすることであり、それこそが「キリストの香りを放つ」ということに他ならないのである。更に付け加えれば、聖書の黄金律と言われている言葉「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)を実践することであろう。敬意を払ってもらいたいなら敬意を払いなさい、親切にしてもらいたいなら親切にしなさい、愛されたいなら愛しなさいetc。それを実践する所にこそ「キリストの香り」は充満するのである。
そうそう、金木犀は私の誕生花、検索したら花言葉は「謙虚、真実、気高い人」と出てきた。う~~ん、花言葉に近づけるように努力するか、それとも諦めるか、あのロシア大統領も同じ日だから、ここは悩むところだ。