判断と決断のハザマで
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「屋外では、人との距離(2m以上を目安)が確保できる場合や、距離が確保できなくても、会話をほとんど行わない場合は、マスクを着用する必要はありません。屋内では、人との距離が確保できて、かつ会話をほとんど行わない場合は、マスクを着用する必要はありません。」(厚労省リーフレットより)特に真新しいことでもないし、薄々感じていたことであるが、「『私が』ではなく『国が』そう表明していると」言えるようになることはありがたい。要するに、判断基準を得たということだ。そこで先日、マスクを外して散歩に出かけた。外気を吸いながら気持ち良く散歩できるはずだったのだが、楽しむよりもすれ違う人の目が気になって仕方ない。知り合いに会えば、距離を考える前にポケットに入れたマスクを取り出し着用。せっかくの判断基準があるというのに、それ以上に自分の習性だとか思いを優先させてしまうということだ。何とも情けない。まぁ、マスクを着脱程度のことだから、情けなくてもこれくらいのことなら許してもらえるだろうが、自分を優先してしまったがために、「王」の座を追われ、子孫も王位を継げなくなってしまったのがイスラエルの初代の王、サウルである。
ある日、神はサウルにアマレク人との闘いに行くように命ぜられた。かつてイスラエルの民がエジプトから上ってきた時に、イスラエルを妨害したからであった。すべてを滅ぼし尽くせというのが神の命令であった。彼は21万人の兵を率いて戦い勝利する。しかし、「サウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」(サムエル上15:9)のであった。神は激しく怒り、「何故そのようなことをしたか」と祭司サムエルを通してサウルに問うと、彼は「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました」(同15:15)と答えた。それは神が判断基準を示されていたのに、兵士たちの申し出にうなずき、決断する際には神ではなく兵士、ひいては自分の思いを優先させてしまったという事にほかならない。日本人的に言えば、「もったいないと思っただけじゃないか」と言いたくなりそうだが、大事な時の決断の時には「もったいない」よりも優先すべきことがあるのだ。そう、神が喜ばれるのは、良い供え物ではなく、主に従うことであったからだ。この結果、サウルもその子孫も王位から退けられてしまった。
せっかくいただいた判断基準、爽やかな空気を吸いにマスクを外して散歩に行こうか。