新しさに慣れる
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コロナ感染者激減のニュースを聞きながら、「第六波に備えて予防し続けなければ」と思いつつも緊張感が薄らいでいく日々。長い戦いになるのだから「新しい生活にシフトチェンジしなければなるまい」と覚悟したはずであったが、リモート疲れ・予防疲れとでも言うのだろうか、心のどこかには、「マスクや消毒に気遣う日々から解放されたい、以前のようにソーシャルディスタンスなんか気にしないで生活したい」という欲望が湧き上がってくる。要するに、ウィルスと共にではなく、ウィルスを気にしないで生きたいという訳だ。ストレスなく生きるためには慣れ親しんだ生活様式を本能として求めてしまうのだろう。
秋葉原の道路際の「消火栓」と書かれた看板の下の広告が、最近ネットで話題になっている。「みさなん おつれまかでさす。きづまきしたね? うえを むいるていと なにしから はけっんが あるでものす。 きょうも あたなに いいとこが ありまうよすに。」サッと見て、意味はお分かりだろう。でも何か変!タイポグリセミア現象というらしく、「単語の最初と最後の文字以外の順番が入れ替わっても正しく読めてしまう」というものらしい。5年前、富山の老舗和菓子店が、「みまなさに だじいな おらしせ。こたのび なかお せいげどつう が ぜたっい に ばれない ように どやらき の リニュアール を おなこい ました」と、どらやきのキャンペーンを行ったところ、期間中の販売実績が過去最高となったのだという。(J-CASTニュースHPより)科学的にはいまだ解明されていない現象だが、脳が経験から判断して理解しようとしているようである。つまり、私たちの脳は、慣れ親しんだ状況にすることで、安定するということかもしれない。「コロナと共に」ということよりも、つい「コロナ以前に」と本能が求めたとしても、それが人間の性なのだろう。
教会で行われる主日の礼拝にも、そのような要素がある。いつも変わらぬ礼拝を守ることで、日常の疲れを取り除き、心を安定させているからでもある。改訂式文や新しい聖書(聖書協会共同訳)への変更が、なかなか進まないのも同じようなことかもしれないと思ってしまう。しかし最初はストレスかもしれないが、新しいやり方や生き方であっても、やがて心に穏やかさを与えてくれるものになるだろうから、コロナ以前を待ち望まずに、コロナと共に生きる中で心の拠り所を見つけていきたい。
そうそう、文中に紹介した文章に何が書いてあったかといえば、「みさなんが ごかりい なたっさおとり」 です。