「サポーター」心

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間もなく「東日本大震災」から10年目となる3月11日を迎える。当時、私は東教区の常議員で、教区として支援やボランティア活動のための協議に加わっていた。ボランティアには常議員も積極的に参加する中、私は一度も参加できなかった。理事長を務めていた保育園の改築工事を3月末で完了しなければならず、地震による人材・資材不足からくる工期遅れに対応しなければならなかったからだ。更に、その年の10月からは教会の補修工事が予定されており、そのための準備も同時に進めなければならなかったので、「ボランティア」に心を向けることができなかったのである。確かに「参加できなかった」のだけれども、気持ちのどこかに「参加しようとしなかった」ということも確かに存在していた。だから参加できる状況になかったことを盾にして、「参加できなかった」と自分を正当化していたと思う。その結果、どこかに後ろめたい思いを引きずりながら、今年も3月を迎えている。

1995年の阪神淡路大震災は、「ボランティア元年」と言われている。多くの方がボランティアとして現地に入り、様々な支援を行った。あれ以後、度々起こる災害にも、ボランティアの活躍が報道される。素晴らしいことだと本当に思う。もちろん、ボランティアはあくまでも自発的な行為なのだから、「参加しない・できない」ということを取り上げる必要はないし、非難すべきことでもない…と理解しているのだが、ボランティアの報道に触れる度に10年前の思いが心の片隅で声をあげてしまう自分がいるのだ。

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。(中略)神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」(1コリンと12:14〜20)働きには様々なものがあって、それぞれが大切だと神は教えてくださっている。それどころか「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(中略)」(同12:22)と更に教えておられる。ボランティアとして現地に入る人々がいて、支援のために捧げる人がいて、心を寄せ続ける人がいて、等々。思いを寄せる人は沢山いるのだ。共通している心は「サポーターになろう」という思いであって、それが形を変えて現れているということにほかならない。

「2011年3月11日の出来事」によって今も苦しみの中にある人々に、私はいつまでも「サポーター」であることを約束する!