ア・カペラで|豊かな礼拝への気づき

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久しぶりに奏楽者のいない朝礼拝となった。市川教会では午前9時から子ども向けに行われる礼拝を「朝礼拝」と位置付けている。礼拝だから当然聖礼典も行われる、奏楽はピアノで。奏楽者は5人(子どもと保護者)の方が協力してくださっているが、ついに先週は伴奏無しの事態で礼拝が始まった。ピアノの音が聞こえない、所謂(いわゆる)「ア・カペラ」での礼拝は何年振りだろう。市川に赴任した当初オルガニストが不在であった。「教会の礼拝はオルガン」に拘(こだわ)っておられた前任者によって、ピアノは会衆席の後ろに置かれ使用されることもなく、伴奏無しで行われていた。私は楽器に拘りはなかったので、一か月後にはピアノを用いることにして以来、24年間「ピアノ伴奏」での礼拝が行われてきた。私が楽器に拘らなかった理由は単純な事で、「イエスの時代だって伴奏の楽器なしで賛美と祈りの礼拝だったのではないか」と思っただけである。「757年に、ビザンティン帝国のコンスタンティヌス帝が、フランク王国のピピン王へオルガンを贈ったのをきっかけに、西ヨーロッパやキリスト教世界に広まっていきます。この頃から教会の礼拝堂に設置され、単旋律のグレゴリウス聖歌を弾くのに使われていたのではないかと考えられます。」(「YAMAHA Make Waves」より引用)要するに、「礼拝はオルガンが相応しい」とされたのはかなり後の時代のことであって、オルガンは(更にいえば伴奏楽器)は「無くてはならないものなのではなくて、どちらでも良いもの」なのだと受け取れば、豪華なパイプオルガンが用いられようと、無伴奏であろうと礼拝そのものの本質は変わらないのである。

「ア・カペラ」とは、もともとは「礼拝堂ふうに」(Weblio辞典より)の意味なので、教会で伴奏を伴わないで賛美されていた礼拝様式があり、それを「ア・カペラ」と表現するようになり、更に転じて無伴奏で歌うことを「ア・カペラ」と言うようになったと推測することが出来る。だから無伴奏の礼拝は、「寂しい礼拝」なのではなく、むしろ私たちの信仰の本質に最も近づける「豊かな礼拝」なのだと気付かせてくれる時でもあるのだ。信仰もまた同じで、深い神学も熱心な行いも、「イエスをキリスト(救い主)とする信仰」を補完しているだけに過ぎない。その意味では、信仰もまた「ア・カペラの信仰」こそ大切にしたいものだし、だからこそ全ての人に与えられているものだと言えるのである。

「ア・カペラ」で礼拝を守りつつ、朝礼拝の5人の奏楽者の方々によって、より豊かに礼拝が守られていることに感謝した先週の礼拝であった。

 


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