不自由になってはじめて見えること

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。(マタイによる福音書18章8節)

【解 釈】 本来、手や足は揃っているのが自然である。もし人が手足を失えば、不自由を感じるのは当然である。しかしイエスは、五体満足に揃っていることがつまずきになるのなら、手足を捨てて不自由さを選び取る決断を迫っておいでになるのである。

人は健康でなに不自由なく過ごすことによって、かえって人にたいして傲慢(ごうまん)であったり、よけいなお節介をしたり、冗舌(じょうぜつ)で鼻持ちならない態度を取ったりするようになることがある。健康で不自由がないことが、あるべき人間の姿を覆っているのである。

イエスは、もしそのような自分に気づくならば、不自由になってみよ、と言われるのである。不自由や病のなかにあってはじめて、見えてくる人間のほんとうの生き方がある。不自由さや病は、望んでやって来ることではないが、そのなかに人の真実がある。手足が揃い、不自由なく生活している者は、真実を失っていることがある。その真実を手にするため、あえて不自由な事態に自分を置いて考えてみよとイエスは言っているのである。

 

 

【こころ】 お年寄りの気持ちが分かるようにと、体に重りをつけ、関節を曲げるのが不自由になるように補助具をつけ、駅の階段を上ってみる、あるいは車椅子の生活がどれほど不自由なのか、車椅子で町に出てみるなど、障害をもつ人の不自由さを体験してみることがあります。

たしかにいろいろな不自由さをみずから体験することによって、思いもよらない厳しい世界を見るにちがいありません。階段などは二段飛びでさっさと上れるものだと簡単に思っていたのに、階段の終わりはとんでもない遥か上であることを思い知らされます。また町に一歩出れば、車椅子の生活はまるで山坂を歩き回るかのようです。その不自由さを体験することで、体の不自由な人の生活をわがことのように感じることができるでしょう。

しかしそれらの体験は、あくまで健常者にとっては疑似体験にすぎません。疑似体験をしているそのときには、不自由とはたいへんなことだと分かるとしても、補助具や車椅子から離れてしまえば、健康なもとの生活が待っています。現実の不自由さがもつ真実は、当の本人だけが知る世界です。その厳しさは、代わってあげることができないのです。

健常者が言い得ることは、「たしかに不自由さがもたらす世界がどんなに厳しいか、よく分かった。でも、ほんとうの厳しさはあなただけしか分からない。私はその厳しさをできるだけ分かるように心がけたい」という言葉だけです。それこそが、あえて不自由になってみる体験をした者が言い得る真実です。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より