あいまいな態度は拠り所を失う
第四章 自戒するとき
人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを日から吐き出そうとしている。(ヨハネの黙示黙3章16節)
【解 釈】 ヨハネの黙示録のなかに、著者ヨハネが小アジア(現在のトルコ)にある七つの教会に宛てて書いた手紙というのがあるが、そのひとつラオディキアの教会に宛てた手紙の一節である。ラオディキアは織物業が盛んで、目薬で有名な医学校があったことでも知られる。経済的にも裕福な町だったので、万事にのんびりとしたところがあったのであろう。その気風もあってか、この町に建てられた教会も生ぬるいところがあった。そのような気風に対して、キリストが言われた言葉として、黙示録の記者が引用したのである。
信仰の世界はあいまいさを許さない。はっきりした決断を絶えず迫る。どっちつかずでは信仰生活は成り立たない。著者は、ラオディキアの教会のように信仰熱心でもなく、かといって反対の立場を鮮明にするのでもなければ、どっちつかずになり、結局、自分自身さえもどうなのか分からなくなっていると言っているのである。
生ぬるいのはよくないということの意味は、善でなければ、いっそのこと悪に走れという意味ではない。物事への決断の態度をはっきりするように迫っているのである。
「口から吐き出す」とは、もはや口に入れても意味のない存在になってしまっているということで、要するに不要になったということである。ぐずぐずした態度は、結果として神から見捨てられることになる。
【こころ】 日常生活のなかでは「適当によろしくお願いいたします」という言葉を何百回聞いたことでしょうか。その言葉を聞かされた側では釈然としない思いを抱えながらも、あいまいさのなかで、波風が立たず、なんとなく物事が動いていくような気持ちがするのです。
けれども信仰は、「適当によろしく」という世界のなかに収まりません。信仰を貫くためには、明確な線引きが求められます。そうでないと、信仰に基づいて生きる意味や価値を獲得することができません。信仰生活は、なにが信仰の断面に見えるかを問うのです。信仰をすばっと切ること、それこそが熱いか冷たいかを決定することです。信仰はその意味で、時間をかけて理解するよりも、瞬時の決断に基づく納得の世界です。
宗教改革者ルターは、「信仰者は罪人であって、同時に義人である」と言います。罪人から次第に義人になるとは言っていません。もし罪人から義人になっていくということが信仰者の道なら、その信仰生活は「まだ、まだ」とか、「こんなことでは」と、はじめから終わりまで中途半端なままで終わってしまうことになるでしょう。たしかに現実の自分は、あらゆる面で不十分です。しかし、信仰者としての自分を見れば、「信仰者は罪人であつて、同時に義人である」ときっぱり言い切ることができるのではないでしょうか。
ルターの有名な著作『キリスト者の自由』の冒頭の言葉には、「キリスト者はすべての者の王であって、すべての者の上に君臨する。キリスト者はすべての者に仕える奴隷であって、すべての者に従属する」とあります。キリスト者は宙ぶらりんで生きていないとルターは言っているのです。
このような信仰の表明には、「適当によろしく」がありません。熱さと冷たさの両面を心得て、きっばりと生きる者の姿があります。それがなければ、それこそ生ぬるい信仰のもち主になってしまうでしょう。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より