苦難を乗り越えた者だけが知る喜び
創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。 申命記8章4節
【解釈】
モーセに率いられたイスラエルの民が奴隷の地エジプトを出てシナイ半島をめぐり、ヨルダン川東岸モアブの地を経て、ヨルダン川を渡り、かつて彼らの故郷であったカナンにはいるのに40年を要した。途中モアブの平野に至ったとき、モーセはすでに120歳であったと言われる。彼はヨルダンを渡らず、後をヨシュアに譲って、その地で果てた。モーセは苦難に満ちたエジプト以来の荒れ野の旅をふりかえり、よくぞここまでたどり着いたとの感を深くしたことであろう。荒れ野の40年という年月は人の一生を象徴する。しかもその40年は肉体的には飢えと死との戦いであり、精神的には民たちの不満と不信仰との戦いであった。
長い苦難の旅が終わりに近づいたころ、モーセはふとおのが着物の裾に目を見やる。あれほどの苦難の旅にもかかわらず着物は古びていず、足もまたはれてはいないことに気づくのである。それは思いがけない恵みであった。その恵みへの感謝を民たちに思い出させようとしているのである。
【こころ】
モーセに率いられて荒れ野の旅を続けたイスラエルの民たちは、旅路の終わりにさしかかった今、旅のつらさだけが思い出のなかに残ろうとしていました。しかしモーセは、民たちに言うのです。「あなたが着ている着物は古びていないではないか。あなたの足ははれていないではないか」。思いがけないところに発見した恵みでした。
人が深刻な問題を抱え込むと、否定的なマイナス面が大きく見えて、どうなることかと暗い気持ちになりがちです。しかし人間の抱えるどのような問題も、問題だからといってマイナスというわけではありません。どのような問題にもプラスの面があるといわれます。
たとえば、心配をする、悲しい気持ちになる、といったことは、人が問題を抱えると、持ちがちな感情です。どちらかといえば、これらの感情は否定的に考えられがちです。でも心配をしなければ、これから先起こるであろう問題を解決することはありません。未来の問題は、心配をするという気持ちがあってこそ、解決へ向かいます。「お子さんにそういう問題がおありのとき、心配をなさるのは当然です。もし心配をしないということがあれば、そのほうがよほど心配です」と子どもさんのことが心配で相談においでになる親御さんに申し上げることがあります。悲しみだってそうです。過去に起こった喪失体験は、悲しく思うことで、思い出という記憶の引き出しにしっかりと収めることができます。そうでないと、過去の喪失体験はトラウマ(心的外傷)として残り続けて、現在の生活にまで暗い影を落とすでしょう。心配をすること、悲しく思うことは、あってはならないマイナスの気持ちではなくて、それがないと次の新しいステップが踏み出せない重要な情動の動きです。そのことに気づけば、心配をしていることも、悲しんでいることも、新しい世界に生きるための恵みであるといえるのではないでしょうか。