なくてならぬものとはなにか

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

しかし、必要なことはただ一つだけである。(ルカによる福音書10章42節)

【解釈】ベタニアの村にマルタとマリアの二姉妹が住んでいたが、イエスがその家の客となられたことがあった。マルタはイエスの接待に気を配り忙しく立ち働いていた。それに比べてマリアはイエスの足もとに座り、話に聞き入っていた。マルタがそれを見て、手伝うように言ってくださいとイエスに頼んだところ、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という答えが返ってきたのである。あれこれ人間的なことに忙殺されるより、深遠な宗教的真理のほうが重要であるとのたとえであると解されがちだが、そうではない。

マルタが忙しく立ち働くのは、人として当然のことであって、その働きがなければイエスだつて飢えてしまう。ここでイエスが言おうとしているのは、なにをしていようと、なにを考えていようと、なくてならぬものはなにかということである。「忙しければ忙しいほど祈る」という宗教改革者ルターの言葉があるが、なくてならぬものはなにかを示している。

 

【こころ】最近のターミナルケア(死にゆく人へのケア)関係の本を読んでいると、スピリチュアリティという言葉がよく目につきます。スピリチュアリティは霊性とも訳され、本来宗教的な意味をもつ用語ですが、宗教とは無関係の一般臨床心理の分野でも取り上げられるようになってきました。高い精神性のことであり、理性だけでは到達できないもうひとつの世界と言ってよいでしょう。「たましい」の世界と言う人もいます。

しかし、たんなる神秘的な体験とか、瞑想(めいそう)、黙想の世界、まして呪術まじないのたぐいのではありません。テレパシーなどということでもありません。

スピリチュアリティということが盛んに言われるようになった背景には、現代社会のなかで死の問題が強く意識されるようになってきたことがあると思われます。宗教を信じる信じないにかかわらず、死をめぐって、共通した問いを人はもちます。「死んだらどうなるか」という問いです。「死んだらなにもないさ」という答えは、他人については言うことができても、さて自分自身についてとなるとそうはいきません。いざ自分が死に臨むとき、あるいはもっとも愛する者が死のうとするとき、このまま終わってよいのか」と問わない人はいないでしょう。死ぬという事実は、人の日常の生活のなかに、いつでも、だれにでも起こり得ます。「私」という人間に死ぬ日が必ずやって来るでしょう。しかし人は、「この『私』は死んだらどうなる」という問いに対する答えを日常のなかにもっていないのです。日常の生活は忙しさで追われるばかりです。

日常の忙しさは、死に対するなくてならぬ答えを見失わせるばかりでなく、生きるにも死ぬにもなくてならぬ答えを見失わせます。「忙しければ忙しいほど祈る」というル ルターの言葉を、携帯電話が片時も放せない生活のなかで思い起こす必要がありそうです。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より