継続すれば、いずれ報われる

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、 それとも両方なのか、分からないのだから。(コヘレトの言葉11章6節)

【解 釈】
コヘレトとは説教者という意味である。ここに挙げた言葉は、人間の営みの世界を深く悟ったコヘレトの言葉である。人が先の見えない生活を毎日過ごすようなことがあると、努力をすることや、労力を費やすことが無駄に見えることがある。かといって、手をこまねいて、なにもしないわけにもいかない。無駄ではないか、こんなことをしてなにになるのかと、いやいやながら事を運ばねばならない日々が続く。

しかしコヘレトは言う。それはちょうど、種を蒔くようなものだ。どの種が収穫に結びつくのか、だれにも分からない。しかし、種のどれかが実を結ぶのは確かなことである。だから、朝に種を蒔き始めたなら、タベまで手を休めるな。途中で、はたしてどの種が実を結ぶのかと疑わしくなることがあるかもしれない。けれども、種が実を結び、収穫の実りがあるのは確かなことである。それを信じなさいと言っているのである。 世のなかには、これから先どうなるか分からず、曖味模糊(あいまいもこ)に見えることがある。こういうときには、ついいや気がさして、すべてを投げ出したくもなる。しかし、かならず答えは返ってくる。それを信じて、今していることを続けなさいという戒めである。

【こころ】
夫の父親が寝たきりになり、まだ若い奥さんはパートの仕事もやめ、しゅうとの世話をすることになりました。食事の世話、下の後始末、入浴の介助、同じことを繰り返す生活が毎日毎日うんざりするほど続いて、これがいつまで続くかと考えると、この奥さんは「私の人生はいったいなんだったんだろう。いっそしゅうとを殺して、私も死んだほうがましだ」とさえ思うようになったと言います。在宅介護を何年も何年もうんざりするほど続ける家庭のなかでは、このような思いに駆られている人が少なくありません。そして、実際に、介護をしている人は、この言葉を他人事として聞くことができません。

この奥さんが介護を続けて数年後、「よくまあ、続いたものだ」と自分でも感心するころ、ときどき「お宅はご老人をどのように世話していらっしゃるの」と聞かれることが多くなってきました。そのたびにこの奥さんは、これまで自分が苦労してきたことや介助の工夫を話すことになって、それまでいやいやながらしてきたことが、思わぬところで人の役に立っていると分かり、不思議に思えたと言います。 いったいこれがなんの役に立つのか、私の人生はこれでよいのか、そうとしか思えない日々の繰り返し、しかも気持ちの重さと戦わねばならぬ生活、そのなかでこの若奥さんは、いつのまにか介護の秘訣を学び取っていたのです。これに類した生活は、職場でも学校でもあるにちがいありません。たとえいやなことであっても、なにか続けていることがあれば、その結果はかならず生じるはずです。どんなつまらないと思えることで も、十年続ければ、それについてのエキスパートになると言われます。いわばそれは、朝種を蒔いて、夜まで手を休めないようなものです。どの種が芽を出すかは分かりませんが、芽はきっと出てくるのです。もしその芽を今の自分のなかに発見できれば、しめたものです。ずっと前に蒔いた種が芽を出しているのですから。

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