絶望の果てでつぶやく「にもかかわらず」

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。 (哀歌3章29節)

【解 釈】
「塵」とは、価値のないもの、捨てられるものという意味である。すべてを失ない、望みも絶たれ、生きる術もないといった出来事が人生には起こり得る。「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」とは、ただ捨てられてしまう以外に価値のない「塵」にでも口をつければ、なんとかなるというのではない。もはや望みは絶たれているのである。 しかし、望みが絶たれているところになお望みを見いだすとは、望みは与えられるのだとの信仰による。人が絶望のどん底にあるとき、 一切の望みは絶たれたかのようである。どのように地上をはいずり回っても希望のかけらもない。

しかし信仰は、望みを絶つより待つことが生きるための真実であると教える。だからこそ、塵に口をつけてでもなお望みをもつのである。

 

【こころ】
教会の礼拝が終わり、ぞろぞろと人が帰り始めるころ、ひとりの人がつかつかとやって来ました。
「先生、『にもかかわらず』なんですね」
突然のことで返事に窮していると、その方が、
「先生は今日『にもかかわらず』という言葉を三回もおっしやいました」
と言うのです。聞くと、その方は、経営していた会社が負債を抱えて倒産し、たいへんな生活を抱えていて、今日はどうしたものか、これからどうなるのかと考えあぐねて礼拝に出ていたらしいのです。そこへ説教のなかで私が「にもかかわらず」という言葉を何度か言ったものですから、それが耳に残って頭のなかで反勿しているうちに、ふと 「にもかかわらず」生きるという気持ちが湧いてきたと言うのです。どうしてそのよう な気持ちになったのか、その人も分からないと言います。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際で「にもかかわらず」という言葉が、その人に将来へ向かう希望を与えたのです。 まったく意図しないのに思いがけないかたちで絶望から希望への転換が与えられるものだとつくづく思わされた出来事でした。

この人の話を聞いて、私自身もどうしてよいか戸惑うときは「にもかかわらず」とつぶやくことにしました。心のなかでつぶやいていると、暗さから明るさへ転回するものを感じるから不思議なものです。

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