
自分を委ねれば、安んじて生きる
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。(詩編71編9節)
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ず そこにいまして助けてくださる。 (詩編46編2節)
主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。(詩編27編14節)
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。(詩編23編5節)
主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。」(エゼキエル9:9)
今まですべてのことを私は一人で乗り越えて来たんだ、と思われている方は少なくないかもしれません。そうではなく、なぜ今自分は無事でいられるのだろうかと不思議に思っておられる方もおられるでしょう。今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は「共におられる神様」を力強く私たちに詩(うた)っています。
教会で、ポスターのこんなキャッチフレーズを目にしたことがあります。「命って誰のもの?」というもので、それはどこかのキャンプで今回テーマにされるものをアピールするものでした。「命って誰のもの?」一言で「命」と言っても自分の命、植物や動物の命、光や風。私たちの周りには様々な命に溢れています。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編15:1-5」にはとても完璧な行いをする人こそ神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っております。「わかってはいるけどその通りできないわ。」というのが人間です。
神様へ心を向けるとはどういうことでしょうか? 特別な修行や勉強をしなければできないことなのでしょうか。力や知識、経済力の問題ではなさそうです。それでは生まれた土地や国、時代の問題なのでしょうか。そうでもありません。特別な土地や力などがなくても神様に心を向けることができます。神様に造られたすべてが...