
選択のときのために備える
主の山に、備えあり(イエラエ)(創世記32章14節)
主の山に、備えあり(イエラエ)(創世記32章14節)
あなたはいかなる像も造ってはならない。(出エジプト記20章4節)
「何のために私は生まれて来たのだろう。」 このような思いを少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。「何のために私は生まれて来たのだろう。」私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。
「今まで自分に起こったすべてのことを、私は一人で乗り越えて来たんだ。」と思われている方は少なくないかもしれません。そうでもなく、「なんで今、自分は無事でいられるのだろうか」と不思議に思っておられる方もおられるでしょう。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は「共におられる神様」を力強く私たちに詩...
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編15:1-5」には、とても完璧な行いをする人こそ神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っております。「わかってはいるけどその通りできないわ。」と言うのが人間です。
神様へ心を向けるとはどういうことでしょうか?特別な修行や勉強をしなければできないことなのでしょうか。力や知識、経済力の問題ではなさそうです。それでは生まれた土地や国、時代の問題なのでしょうか。そうでもありません。
「あれ今、私こんな気持ちでいたんだ」と気づかされる時はありませんか?そのような時や「こんな気持ちを抱いてもいいのかな?」という時があったり、聖書の言葉は飾りません。ましてや今、私たちの読んでいる詩編はほとんどが祈りの言葉です。 私たちも祈る時、言葉なんて選んでいる余裕もない時もあります。なんて祈...
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い……ど。」(哀歌3章22、23節)
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。(詩編71編9節)