わかってはいるけど
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編15:1-5」には、とても完璧な行いをする人こそ神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っております。「わかってはいるけどその通りできないわ。」と言うのが人間です。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編15:1-5」には、とても完璧な行いをする人こそ神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っております。「わかってはいるけどその通りできないわ。」と言うのが人間です。
神様へ心を向けるとはどういうことでしょうか?特別な修行や勉強をしなければできないことなのでしょうか。力や知識、経済力の問題ではなさそうです。それでは生まれた土地や国、時代の問題なのでしょうか。そうでもありません。
「あれ今、私こんな気持ちでいたんだ」と気づかされる時はありませんか?そのような時や「こんな気持ちを抱いてもいいのかな?」という時があったり、聖書の言葉は飾りません。ましてや今、私たちの読んでいる詩編はほとんどが祈りの言葉です。 私たちも祈る時、言葉なんて選んでいる余裕もない時もあります。なんて祈...
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い……ど。」(哀歌3章22、23節)
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。(詩編71編9節)
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ず そこにいまして助けてくださる。 (詩編46編2節)
主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。(詩編27編14節)
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。(詩編23編5節)
主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。」(エゼキエル9:9)