
祈る時の聖書 ~お祈りは手紙のようなもの~
お祈りは手紙のようです。宛名がなければ届きません。 たとえ、どんなに心に思っていたとしても、相手にわかる言葉で、自分自身も納得して、自分が手紙を出したい相手の宛名や住所が記されないと、自分の希望する相手には届きません。
お祈りは手紙のようです。宛名がなければ届きません。 たとえ、どんなに心に思っていたとしても、相手にわかる言葉で、自分自身も納得して、自分が手紙を出したい相手の宛名や住所が記されないと、自分の希望する相手には届きません。
心配はいらん。受付があるはずじゃから、予め「自己紹介は遠慮したい」と伝えておけば大丈夫である。
「人を殺すな」と言われたら私たちは「大丈夫。そんな犯罪は起こさないと思うわ。」と言うかもしれません。でも「人を恨むな」と言われても、自分に何が起こるかもわからない今「そんなことしません」と自信を持って言えるでしょうか。
教会に行くようになり信仰を告白して初めて信者になるのである。ちなみに「信徒」という言い方をよくしておるぞ。
皆さん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 皆さんとお読み致しました聖書の箇所「ルカ2:25-35」は新年にお読みする聖書の箇所としてふさわしい箇所です。というのはこの「シメオンの讃歌」とされている讃歌は、毎回礼拝の中で皆さんと歌う「ヌンクディミティス」そのものだからで...
一月一日に礼拝をしている教会は多いぞ。是非とも「初詣」ならぬ「初祈り」に出かけてみてくれたまえ。
おはようございます。お一人お一人にとって今年はどのような年でしたでしょうか。神様があなたと共におられないときはあったでしょうか。残念ながら神様があなたと共におられないときはありません。いままでも、そしてこれからもです。
それは「ユダヤの地ベツレヘム」である。この小さな町から救い主が生まれることを人々は心待ちにしていたのである。
私は今子育てのまっ最中。子どもを取り巻く環境は、これは危ない、あれも駄目と規制だらけ。もっと伸び伸び子どもを育てたいと思っているのですが、少しでも危ないと思うとついつい子どもを手許に引き寄せてしまいます。どんな心がけが必要なのでしょうか。
おはようございます。「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と今朝、与えられました聖書の箇所の中にあるルカ1:38でマリアが天の使いである天使ガブリエルを通し神様へと告白します。