罪悪感を感じる時の聖書 ~神様はケチじゃない~
おはようございます。日本では八百万の神としていろんな所に神様がおられるとの昔からの習慣があります。物や自然を敬い大切にするということは、どうでもいいことではなく私たち人間には必要なことです。ただ、物や自然を敬
おはようございます。日本では八百万の神としていろんな所に神様がおられるとの昔からの習慣があります。物や自然を敬い大切にするということは、どうでもいいことではなく私たち人間には必要なことです。ただ、物や自然を敬
おはようございます。何度も繰り返している入退院ですが一回一回の入退院が違っている大切な一回一回なのだと改めて思います。それは皆様お一人お一人がお迎えになる一日一日と同じ神様から与えられるかけがえのない一瞬一瞬だからです。
もし、自分が透明人間だったらどうしますか?考えたこともないわ。と言う方もおられるかもしれませんが考えてみて下さい。私は幼い頃,多分丁度反抗期真っ最中だったくらいに透明人間になりたい。と思いました。そうしたら誰にも干渉されず誰からも監
私たちは信仰を持ってもなお罪人です。罪の力は強いのです。でも人間の努力でなく、信じる者のうちに働く聖霊(神さまの力)が働いて、人を日々新たにして行くのです。日々心を新たにして、「主イエスよ、来てください。」と祈りつつ、新しい天と地を望みみつつ、与えられた人生を喜びと感謝と希望のうちに歩み続けたい...
死は決して終わりの時でなく、永遠の世界への通過点にすぎません。私たちは、永遠の御国へ向かう巡礼の旅を続ける旅人なのです。目標が明確なので、死の影におびえつつではなく、右にも曲がらず、左にもよろめかず、確かな足取りで人生を歩み続けることが出来るのです。
イエスさまの愛は命令や義務感でなく、自由で自発的で喜びに満ちたものです。その愛が「他ならぬこの私のためだ。」と知る時、人は喜びに打ち震えます。全く新しい世界に生まれ変わった経験をするのです。
「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」(ローマ8:38以下)キリストの十字架の愛を通して与えられた神さまの愛を信じて、真の喜びと平安に生きましょう。
アダムとイブの最初の罪(原罪)は、「神さまのように善悪を知る人間になりたい」ということでした(創世記3章5節)。神さまでない人間が、神さまとなるという思い上がりです。これは、すべての人間が心の奥底に持っている根源的な罪です。
パウロは最初キリスト教を迫害していました。しかし使徒言行録9章3節で、パウロは、「突然、天からの光に照らし出された。」と言います。パウロにとって、全く突然の出来事でした。そこで、イエスさまの声を聞いたのです。
教会の誕生は不思議な出来事です。奇跡と言ってもよいかもしれません。何故なら、弟子たちの誰一人、教会を作ろうなどとは考えていなかったからです。