バッハの父と母、バッハの生涯(少年時代)
ワルトブルク城を見上げて
200年の隔たりを経ながら、少年バッハはこの町で育って、もう一つルターとのつながりに、それもほぼ絶え間なく接していたと言ってよい。この町のはずれ小高い山の上に立つワルトブルク城を少年バッハはわざわざ見上げるというのでなく、毎日極自然に何度も目にしていたはずである。この城には1521年ウォルムスの国会で自分の信仰の主張の撤回を拒み、「帝国追放刑」を科せられたルターが9ヶ月かくまわれていた。その最後の10週間にルターは新約聖書をドイツ語に翻訳したのだった。ラテン語訳聖書以外は禁じられていたこの時代、聖書をドイツ語に訳すだけでも命を懸けた大胆な行動だった。ルター自身が「民衆の口の中をのぞき込んで」と言っているようにその言葉と宮廷の格調高い言葉とを考えながら訳した名訳だった。これが出版されるや否や圧倒的な支持を得て、人々の間に広まった。ルターは1534年には旧約聖書のドイツ語訳も完成させたから、ルター訳聖書はその後今に至るまでドイツ語訳聖書の決定版となっている。我らがバッハも山の上の城を見上げながら、この聖書を読んで育ったのだった。
少年バッハは学校でも聖書を教わり、教会では礼拝に出席するだけでなく、いろいろな奉仕もし、特に少年聖歌隊の一員でもあったろう。音楽一家のこと、見よう見まねで様々な楽器にも触れ、オルガンも弾き始めたのではなかったろうか。
しかし平和な少年時代は長くは続かなかった。平均寿命40歳の時代のこと、少年バッハ9歳の時に母が、10歳の時に父が相次いで世を去ったのである。当時の習慣に従って末っ子の少年バッハはすぐ上の兄と共に、オールドルフのルーテル教会でオルガニストをしていた長兄の許に引き取られて、そこで学校に通いながら、オルガンの手ほどきも受けることになった。