いずれにせよ、そこから始めよう
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。(フィリピの信徒への手紙3章16節)
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。(フィリピの信徒への手紙3章16節)
神様へ心を向けるとはどういうことでしょうか? 特別な修行や勉強をしなければできないことなのでしょうか。力や知識、経済力の問題ではなさそうです。それでは生まれた土地や国、時代の問題なのでしょうか。そうでもありません。特別な土地や力などがなくても、神様に心を向けることができます。
ちょうど2年になる、新型コロナウィルスが広がり始めて。対岸の火事と感じていたが、徐々に日本でも感染者が見つかるようになって、当初は「インフルエンザのようなものではないか」と勝手に判断していた。
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。コリントの信徒への手紙二、6章2節
「あれ、今私こんな気持ちでいたんだ」と気づかされる時ありませんか?そのような時や「こんな気持ちを抱いてもいいのかな?」という時があったり。でも、聖書の言葉は飾りません。そして、私たちが読んでいる詩編はほとんどが祈りの言葉です。
一日で100cmの積雪を、帯広教会に居た時に経験したことがある。40~50cmの積雪を見て、すぐに雪かきを始めたが、雪は降り続き、数メートル程雪かきして振り向くと、再び膝辺りまでの積雪。その繰り返しだった豪雪の日であった。あれこそまさに「大雪」だった。でもそこは雪国、道路は一部で少し渋滞があったもの...
この方においては「然り」だけが実現したのです。(コリントの信徒への手紙二、 1章19節)
「2コリント5:16-21」において、キリストによって私たちは神様と和解させていただき、神様によって義とされた、と語られています。「和解」?「義とされる」?そんなこと私は望んでいないし、どうでもいいじゃん、と思われる方も少なくないと思います。
(58) クリスマスの余韻に浸る間もなく、新年を迎えた。日本式の様々な新年の行事の中で、クリスマスに与えられた恵みや思いは心の片隅に追いやられてしまう...
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙8章28節)