基準は変わる|「自分のため」から「隣人のため」へ

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三週間に亘る牧師館の風呂場全面改修工事が今週で終わる。来年春の牧師交替に備えて、錆付いた穴が何か所もある風呂場を新しくするための工事だ。工事初日、浴室が解体された。解体する前の検査で、床下にはツタがはびこり、浴槽は土台の上ではなく桟1本で支えているだけという、驚くようなことが分かった。「半世紀前の建築基準だから、それで良かったのでしょうね」とは社長さんの言葉。ただ、それだけでなく、洗面台と洗濯槽の排水パイプが途中で外れており、排水が地面に直接流れ込んでいたということも解体して判明した。要するに下水管に流れずに、地下に浸透するだけの状態になっていたということだ。錆が多い理由はそこにあった。排水パイプが外れた原因は、当初からだったのか、はびこっているツタが成長する時の勢いで外れたか、それともあの地震の時かは分からない。ともあれ土台はなくても良しとされていた古い基準がもたらしたものであることには違いない。ついでにみてもらった台所の床や壁のへこみ等も「当時の基準に照らせば問題なしだったのだろう」とのことだった。

家屋とそこに住む人の安全のための建築基準だが、そのために多少の不具合があったとしても、基準さえ守っていれば「良し」とされてきたのが半世紀前までの一般的な工法だったのかもしれない。しかし古い基準のままでは、利便性や快適さ、また環境への配慮などが求められる時代には適合しない。だからこそ新しい基準に沿って改修を行うことで、時代に合った安心・安全・快適さを得られるということでもあろうか。

そういえばイエスも同じような事を教えてくださっている、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする(マタイ9:17) と。神を信じている事の証しとして多くの律法を守らなければならなかったユダヤの人々に、最も重要なことは「神を愛すること、隣人を自分のように愛すること。全てはこれに基づいている」と教えられた。それは新しい信仰の基準であって、神を信ずる人々の生き方そのものが大きく変わることを意味した。即ち、「律法を守らなければ救われない」という基準から、「既にイエスの十字架によって救われている」という基準に変わるのであり、自分のための信仰から、隣人に仕えるための信仰へと変わることだからだ。

基準はあくまでも限定的なものであって、状況や歳月によって変化する。だからこそ常に見直しが必要になるのだが、最も変えることに抵抗あるのが「自分の中の基準であるかもしれない」と、70歳の誕生日を迎えて反省している。

教会の皆様のご協力により新しくなったお風呂場で、私も変わる…かな。

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