不便ではあるけれど、不幸ではない|聴覚障がい者と共に生きるために

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私の足音を聞きつけた我が家の犬モモが戸口の前で待っている、私からオヤツをもらうために。モモは白内障によって1年程前から目が殆ど見えていない(ようだ)。最初に気付いたのはオヤツを待っている時にあらぬ方向に顔を向けていたことだった。その頃は三匹いたので、他の二匹に遠慮しているのかと思っていたが、そんなことが繰り返される内に、目が見えていないということに気付いたのだ。昨年末、そして今年の8月に次々と死に、今は一匹だけなので遠慮することはなくなったが、相変わらずオヤツを待っている時はあらぬ方向に顔を向けることが多い。でも目は見えずとも聴覚と嗅覚で何不自由なく過ごせているように見えるのは、飼い主のひいき目かもしれないが・・・。

先日、「総武地区合同礼拝」が市川教会で行われた。六つの教会が年に一度、各教会持ち回りで20年以上前から続けられてきた集まりだ。市川教会で内容を協議している内に、昨年末(2023.12.24.週報)、デフリンピックについて書いた文を目にした役員が、「合同礼拝で取り上げたら?」と提案してくださり、「障がいのあるなしに関わらず、共に生きる社会へ~東京2025デフリンピックに向けて~」というテーマで開催した。「聴覚障がい」といっても、生まれつきの方もいれば途中からの方もいる。全く聞こえない方もいれば難聴という方もいる。「聞こえない人」と一括りにしてしまわないで、ひとりひとりの状況を理解すれば、交流のための様々な方法があることも知った。また、大会に初参加のデフハンドボールクラブからも日本代表のお二人が来てくださり、大会への理解を深めることができた。

「目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人とを切り離す。三重苦だったヘレン・ケラーは、『もし一つだけ良くなるとしたら、耳が聞こえるようになりたい』と言った。」講師のこの言葉は、聞こえないということがどういうことかを明確に教えてくれていた。とはいえ、ヘレン・ケラーも「私たちは『不便』ではあるけれど、『不幸』ではない」と語っているように、彼らの「不便さ」を取り除くことこそが聴覚障がいの方々と共に生きることに繋がることを教えていただいた気がする。イエス様は貧富・障がい等の隔ての壁を越えて、神に繋がりそして人に繋がるために、来られたのだと強く思えた時であった。

我が家のモモも、「ちょっと不便だけど不幸じゃないよ」と思ってくれているだろうか。

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