祈り)
月日は絶え間なく流れ、私たちの取り巻く環境や日常は少しずつ、けれど確実に変化していきます。
10年前、あるいはもっと前の自分には想像もつかなかった今を、私たちは生きているかもしれません。
この先、10年後や50年後に私たちがどのような状況の中に置かれているのか、それを正確に知ることは誰にもできません。
ただ分かっていることは、たとえ10年、50年後であっても、
私たち一人一人に与えられる一瞬一瞬の積み重ねです。
今、神様から与えられているかけがえのない一瞬一瞬を
丁寧に自分なりに生きていくことができますように。
これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書箇所】マタイによる福音書20章29〜34節
イエスは深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。(34節)
さて、神様から憐れみを受けている人と受けていない人がいるのでしょうか?では、どうすれば憐れみを受けられるのでしょうか?たくさん祈っている人とか、誰から見ても人に親切でやさしい人だから、神様からたくさん憐れみを受けているのではないかと思われるかもしれません。しかし、そのようなことはありません。神様によって造られた全ての一人一人は神様から憐れみを受けています。
「憐れみ」は「同情」とは違います。神様は人を見下して「しょうがない、かわいそうだから手を差し伸べてやろう」と言われるのではなく、聖書に語られているように「立ち止まり」「一人一人の魂の名を呼び」「向き合い」「触れて下さる」のです。「何をしてほしいのか」と一人一人の魂へ静かに問いかけます。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所の最後に、目が開かれた二人の人はイエス様に従います。なーんだやっぱりイエス様は信者を増やしたいからされた行為なんじゃないの?と思われる方もおられるかもしれませんが、それは違います。神様であるイエス様は、すべての一人一人に憐れみを与えられます。決して見返りは期待されず、ただ一人一人の必要な時に十分に憐れみを与えられるのです。それを受け取る私たちは誰からどのようにして、何で、と考えるかもしれませんが、無償に与えられるのが神様からの憐れみなのです。神様から憐れみを受けているからこそ、私たち一人一人も憐れみを分かち合うことができます。イエス様に従うこと、それも神様に心を向けることです。神様から憐れみを受けて私たちも憐れみを分かち合うことができます。すべての一人一人が用いられています。
一人一人のかけがえのない存在を造られ、今も憐れまれておられる神様に感謝します。
