神様から命を与えられて今を生かされて

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エゼキエル9:9-10
9:9 主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。 9:10 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」

 

 

祈り)

天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
今、土の中にたくさんの命がいます。
今年は例年より気温が低く、寒さを私たちは感じます。
神様、あなたが私たちに与えて下さる一つ一つの恵には、
平均的な値や重さ、寒さの違いなんてありません。
神様、あなたはいつも一人一人に、十分な恵みや愛を、
慈しみをもって注いでいて下さいます。
今日もあなたに感謝いっぱいで過ごすことができますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

 

 

『主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない」と言っている。』エゼキエル9:9

 

 

おはようございます。
「何のために私は生まれてきたのだろう。」
このような思いを、少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。
「何のために私は生まれてきたのだろう。」
私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。

では、イエス様はどうでしょうか?
イエス様は、何のために生まれていらっしゃったのでしょうか。

2017年は3月1日に、私たちはイエス様の十字架への道への歩みを覚える受難節を迎えました。
イエス様は、十字架の上で死ぬために生まれたのでしょうか。
いいえ違います。
神様から生をこの世に受け、神様に必要とされて生かされたのです。
それは私たち一人一人も同じです。
今、生きているのは、今ここであなたという存在が必要だから、
神様に見える存在としての命を与えられています。
見えない存在として、必要とされ、生かされている命もたくさんあります。

じゃあイエス様と私は同じ?
私たち人間は、地上で生きられたイエス様のように生きようとすることもできるでしょう。
しかし、神様であるイエス様のように、神様と人間の架け橋そのものにはなれませんが、
イエス様と人間を繋ぐ心や祈りを、人々に分けることはできます。
私自身がどんなに小さくて弱く感じていても、
そのようなありのままのあなたを神様は用いて下さいます。

「何のために私は生まれてきたのだろう。」ではなく、
「神様があなたを必要とされているから、今あなたは命が与えられている」のです。

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