あなたがいるから
祈り)天の神様、新しい目覚めを私たち一人一人にありがとうございます。
新しい「今」というこの時も神様あなたが共にいて下さることを思い起こし感謝できますように。
これから語られますみことば、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書箇所:ルカによる福音書2章1〜7節】
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(7節)
今お読みした聖書の箇所に『宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである』(ルカ2:7)と語られています。私は聖書を読んでふと不思議に思いました。「マリアさんもヨセフさんもいやじゃなかったのだろうか?」と。でもここも神様が共におられる場所だったのです。
そこには神様はいないはずと思う所でさえ、あなたがいるのなら神様も共におられます。また、私たちは言いようのない孤独を感じることがあります。一度だけのこともあれば繰り返し繰り返し襲って来ることもあります。今、自分が生きている意味さえ誰かに教えてほしいくらいに追いつめられることもあります。それは他人から見たら大したことがなくても自分にとっては重要なこともあります。
「あっ、あの時も私は一人ではなかったんだ」と、人も触れない孤独や自分でも蓋をしてしまいたいような現実の中でもがいていた自分を思い出した出来事があります。それはある旅行のツアーのバスで、この旅行に参加した理由を一人一人が話した時です。その頃、杖で歩いていた私は「この地を自分の足で踏みしめたいからです。」と言いました。その言葉にはいずれ車椅子になるであろう未来を思っての言葉でしたが、誰がその時の私の気持ちをわかってたのでしょう。そして今日のみ言葉が私の孤独に触れました。「一緒にいて下さったんだ。私は一人じゃなかった。」こんな所、人間がいるはずないとか、私の気持ちなんて誰もわかってくれない、というような孤独の中にも、神様は共におられます。なぜならあなたがそこにいるからです。
置かれた場所で咲きなさいと言われた方がいました。「神様に与えられた場所であなたらしく生かされましょう。」と言われているようです。私は牧師になるつもりは全くありませんでした。なれるわけないと思ってて、牧師さんの奥さんにならなれるかしらと思ってました。だから今の自分が牧師にされてるなんて神様すごいなぁって思います。ただ、こんな私みたいな人間でも神様に生かされているって伝えたいと思ってたらこうなっていました。昔は学校か幼稚園の先生になるのが夢でした。今、皆さんもなりたい自分や思うようにいかない自分、これから自分はどうなっていくのだろうかと不安な自分が見え隠れしているかもしれませんが、絶対あなたの味方でいつもあなたを大切にして下さる神様が共にいらしてあなたを応援されています。
クリスマス、それはあなたという存在がどのような時でも共にいて下さる方を覚える日でもあります。
あなたは決して一人ではありません。神様が共におられます。