バッハの宮廷音楽

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ケーテンの5年半

1717年末バッハは厚遇をもって、アンハルト・ケーテン公の宮廷音楽長に迎えられた。ケーテンでは宮廷もその領土も、スイス・ジュネーヴの宗教改革者カルヴァンに由来する改革派教会の信仰に立っていた。この伝統では音楽は礼拝の妨げになるとして、いわゆる「ジュネーヴ詩編歌」が歌われるだけだったから、ここにいた5年半バッハに教会音楽の場はなかった。バッハは宮廷での諸行事や、ケーテン公の求めに応じて、主として室内楽に当たる音楽を作曲し、演奏するだけだった。そのためにケーテン公は宮廷楽団のための十分の配慮を続けもした。よく知られている「ブランデンブルク協奏曲」を始め、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」、「インヴェンション」、「平均律クラヴィーア曲集」第一巻などを作曲したのではないかと考えられている。こうして教会音楽なしで、音楽一般にだけ関わる5年間バッハは「音楽とはなにか」を自らに問い続けたことであろう。教会音楽ではない、こうした器楽曲のみの営みの中にも、バッハは「祈る心」を込めたに違いない。民衆のための賛美歌(コラール)を多く自ら作詞もし、作曲すらしてこれを圧倒的な形で広めた宗教改革者ルターもまた、コラールや教会の音楽だけでなく、広く音楽一般に深い共感の思いを抱き続けていたことを、バッハも身をもって体験し、思考する年月を与えられたと言えないだろうか。

しかしその終わりの2年間、ケーテン公の気が変わって、宮廷楽団の規模を小さくし始めたりしたとき、再びバッハは教会音楽の世界に戻ろうとする。そこでいずれもルーテル教会の地域であったハンブルクの聖ヤコブ教会とライプツィヒの聖トマス教会のオルガニスト、カントールを志願して、試験を受けることとなった。

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