
沈黙とは~ピアノ教室の思い出~
ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編37:7」において詩人はこのように語ります。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」と。
ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編37:7」において詩人はこのように語ります。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」と。
今まで生きてきた中で「一度も失敗したり間違った事はしたことがない」という方はおられますか?失敗したくて選んだわけではないけど、結果としては失敗してしまったり、間違ってしまったりしたことはあるかもしれません。
「えっ、こんなところにも神様っているの?」と思うところにも神様はいらっしゃいます。ここにはこの神様、あそこにはあの神様というように、たくさんの神様がいろいろなところにいるのではなく、どんな所にでもすべてを創造された神様は、聖霊となって共におられ、共に働かれておられるのです。むかし「トイレの神様」...
「...どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は詩いはじめます。「あなたにとって帰るところはどこですか?」と聞かれて、皆さんはどこを思い浮かべるでしょうか?昔の事を思い出して、自分の育ったふるさとを思い浮かべる方もおられるでしょう。また礼拝が終わって帰る、老人ホームの自分の部屋を思い浮かべる...
「すべてのことを、私は一人で乗り越えてきたんだ」と思われている方は少なくないかもしれません。逆に「なんで今、自分は無事でいられるのだろうか」と不思議に思う方もおられるでしょう。今、ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所は「共におられる神様」について、力強く私たちに詩(うた)っています。
本日の箇所「詩編15:1-5」には、とても完璧な行いをする人こそ神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っています。でも、「わかってはいるけど、その通りにはできないわ。」というのが人間です。
神様へ心を向けるとはどういうことでしょうか? 特別な修行や勉強をしなければできないことなのでしょうか。力や知識、経済力の問題ではなさそうです。それでは生まれた土地や国、時代の問題なのでしょうか。そうでもありません。特別な土地や力などがなくても、神様に心を向けることができます。
「あれ、今私こんな気持ちでいたんだ」と気づかされる時ありませんか?そのような時や「こんな気持ちを抱いてもいいのかな?」という時があったり。でも、聖書の言葉は飾りません。そして、私たちが読んでいる詩編はほとんどが祈りの言葉です。
今まですべてのことを私は一人で乗り越えて来たんだ、と思われている方は少なくないかもしれません。そうではなく、なぜ今自分は無事でいられるのだろうかと不思議に思っておられる方もおられるでしょう。今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は「共におられる神様」を力強く私たちに詩(うた)っています。
教会で、ポスターのこんなキャッチフレーズを目にしたことがあります。「命って誰のもの?」というもので、それはどこかのキャンプで今回テーマにされるものをアピールするものでした。「命って誰のもの?」一言で「命」と言っても自分の命、植物や動物の命、光や風。私たちの周りには様々な命に溢れています。