
また、あした
「また明日」という言葉を私たちは使います。近所の友達と遊んで別れる時や学校で帰宅する友達と別れる時、会社の仲間と別れる時。「また次の日会おうね」という意味で私たちは「また明日」と言います。また、幼い頃、私は教会で牧師に「永遠のあしたも私たちには与えられているんだよ」と言われ、先生も随分難しいこと...
「また明日」という言葉を私たちは使います。近所の友達と遊んで別れる時や学校で帰宅する友達と別れる時、会社の仲間と別れる時。「また次の日会おうね」という意味で私たちは「また明日」と言います。また、幼い頃、私は教会で牧師に「永遠のあしたも私たちには与えられているんだよ」と言われ、先生も随分難しいこと...
「いつも私は光と共にある。」と思われる方はおられますか?では、「いつも私は命と共にある」と思われる方は?「命がなければ死んじゃうよ!当たり前なことだから意識したこともないよ。」と怒られてしまいそうですね。そうです。「私たちは命を与えられている」と当たり前に思っていても、それが神様の光によって照ら...
「あなたから言葉は決してとられない。」この言葉は何年も前,病院の診察で私がお医者さんに言われた言葉です。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)とイエス様は語られます。
『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい』とイエス様は言われます。皆さんにとって愛は何色ですか?どんな形をしてますか?愛には決まった色も形もありません。一人ひとり違うように感じられるかもしれませんが、愛は確かなものです。
本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネによる福音書9章3節)
私は九州の熊本で仕事がありました。熊本から大分へと足をのばして、 12年間メールでしかお話したことのない車椅子の同病の方にもお会いして来ました。 私が牧師ではなかったら、熊本の教会に用いられる機会もありませんでした。
今日も誰かのお誕生日です。 私たち一人一人は神様によって用いられ続け、 そして、これからも生き続けていきます。 私が「生きる」と表現しましたように、 お一人お一人を大切にしたいという『思い』が生きているのです。 その『思い』の中心になっているのは 今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「ヨハネ13...
今、ご一緒にお読み頂いた聖書の箇所の中で「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエスキリストを通して現れた。」と語られています。 「律法」は人間に与えられ、人間一人一人に同じ文、同じ形で与えられております。 それこそ偉い律法の学者の説明や解釈が文、 字通り守られて何年経ってもその意味は...
私たちは神様を見たことありません。 いくら聖書にイエス様のみ言が記されていたとしても、 イエス様の姿を見て確認することもできません。 そのような存在である方を信じて感じることしか、 今を生きている私たちにはできません。 でも、逆に言うのなら、 私たちは目には見えないものだからこそ、信じるしかない...