あなたはかけがえのない存在
祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
「明日は朝なんてこなければいいのに」と思うような日もあったり、
「早く明日が来ないかな」とわくわくしながら眠りにつく日もある私たちですが、
神様は「今日はこの人は悪い事をしたから、見せしめに目覚めさせないぞ」などとは言わずに
一人ひとりにふさわしいように目覚めを与えて下さいます。
イエス様が祈られたように自分の思いや望みではなく
「神様が私に一番良いと思われるように、すべてが与えられますように」と祈る私たちでありますように。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
今日の聖書の箇所は、教会の暦の上では「受苦日」という日に読まれることの多い箇所です。「受苦日」は十字架上のイエス様が息をひきとられる日として、教会ではその日を覚えます。一人の人間として生きられた主イエスの「死」を私たちはみ言によって心に刻みます。
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、息を引き取られる前の主イエスと、十字架にかかっているイエス様をみつめる人たちの場面が語られています。「何のために自分は生まれたのか」と私たち人間は問いますが、主イエスは「何のために死んだのか」とも問われます。その答えは一つではありません。しかし、神様は答えられます。「命を与えたのは、あなたが必要だから」と
イエス様も誕生から死まで神と共にあり、イエス様ご自身が祈る人でした。これは今を生きる私たちと何ら変わりはありません。ただ違うのはイエス様は神様であることです。だから私たち人間に見える形で復活されました。神様がすべての一人ひとりを必要とされるから、私たちに命を与えられておられることを伝えるために。たとえ見えない存在としてのかたちでも「命は在る」ということを。
私たちはあたかも見える存在のものの命だけが「生きている」ことであると思い、「この世の死」は終わりであるかのように思います。だから「この世の死」を恐れたり悲しんだりします。しかし「永遠の命」とは見える形で存在するものだけが命の形ではないとも私たちに語ってくれているのではないでしょうか。神様が一人ひとりを必要とされるから命を私たちに与えられておられます。
だからこそ見える形でも見えない形であっても、すべての一人ひとりは神様にとってかけがえのない存在なのです。