生かされて生きる

マタイ26:1-5

26:1  イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」 26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、 26:4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。 26:5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは今、神様のみ心に従い深い祈りの中、
十字架へと向かって歩まれるイエス様の私たち人間への深い愛を覚えて、
祈りつつ歩んでおります。
それと同時に10年前、日本で起こった「東日本大震災」を覚え祈りを合わせています。
この震災を通して多くのものが失われ、新たに多くのものが生まれつつあります。
私たちに与えられているもので当たり前のものは何一つありません。
しかし、今与えられているもの一つ一つに感謝をすることは私たちに赦されています。
今、与えられている一つ一つを感謝しながら歩んで行かれますように。

これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」(マタイ26:2) 

「あなたにとって今、何が大切ですか?」
何を急に先生は聞くのだろうか?と思われた方も多いと思われます。ひとつには絞りきれない方や、「そんなの時と場合によって違うわ」とおっしゃれる方もおられると思います。

それでは、今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所で語られている登場人物にとってはどうでしょうか?イエス様と弟子たち、そして民の長老たちや祭司長たちです。イエス様にとっては神様の「み心」が大切です。弟子たちにとっては「イエス様」と言いたいのですが何だったのでしょうか。時と場合によってしまったりします。民の長老たちや祭司長たちにとってはどうでしょうか。民衆からの自分たちの評価が大きかったようです。聖書では長老や祭司長たちが民衆の騒ぎが起こらないように、イエス様を殺す計画は祭りの後に実行しようとしていると語っております。

私たち一人ひとりの心の中心や大切な事が、人からの評価であったり自分が理想とする何かであるときがあります。それらのことのすべてを否定するわけではありませんが、それらすべてがあなたの存在や命を評価するものではありません。また、それらを理由に自分以外の人の存在や命の否定はできません。それは時と場合によるものでも、たくさんある大切なもののうちの一つではないからです。

命、存在それは神様によって与えられています。必要とされあなたは命を与えられています。いつもいつも忘れずに命を与えられていることを神様へ感謝することはできたりできなかったりかもしれませんが、神様はいつもあなたに「生きていてありがとう」と愛をおくって下さいます。