神様に向かって
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
「また、明日」という言葉は、私たちにいろんな可能性が当たり前のようにあるとき、何も深く考えず言います。
特に明日学校で友達と会うのがまるで当たり前のように、子どもの時はよく言いました。
しかし、大地震や津波、突然の事故が自分を襲うようなことがあったり、
身近な人が突然不治の病にかかったり、様々なことが自分の周りや知っている人たちに起こると、
「また、明日」という言葉の空しさを感じることがあります。
希望と願望は違います。自分の思い通りに未来も描かれるのは願望です。
一人ひとりを大切にされている方に未来を委ねることは希望です。
一人ひとりを大切にされる方、それは神様です。
希望のある一日一日を、そして希望のある明日を勇気を持って歩みたいと思います。
これから語られます神様、あなたからのみ言この語る者を通して、
神様、あなたがここにおられるお一人お一人へとお語り下さいますようお願いします。
この語る者の全てを神様、あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお捧げ致します。
アーメン。
【参照聖書箇所:詩篇77編】
神に向かってわたしは声をあげ
助けを求めて叫びます。(2節)
皆様の中にもよくご存じの方がおられると思いますが、星野富弘さんという方の花の絵の横にこのような詩が添えられてありました。
「冬があり夏があり 昼と夜があり
晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように
悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく」
今、与えられた聖書の箇所「詩編77編」は次のような詩人の叫びで始まっています。「神に向かってわたしは声をあげ 助けを求めて叫びます」と。とても嬉しいときや浮かれているとき、私たちは神様に叫ぶでしょうか。感謝や賛美をするときもあるでしょうが、ほとんどしません。ほとんどが悲しみや苦しみの時にもがいてもがいてどうしようもないときに、「神様助けて下さい」と祈ります。「それは都合が良過ぎるよ。」とは神様はおっしゃいません。また、私たちがとても嬉しいときや浮かれているときを神様がご存じないわけでもありません。人間である私たちが忘れているだけで、神様は一人ひとりをちゃんと覚えて愛してくださっています。「冬があり夏があり 昼と夜があり 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく」と詩われているように。また、今ご一緒にお読みした詩編の詩のように。
たとえ私たち人間の側からは、悲しい時や苦しい時にしか神様に祈り求めることができないにしても、嬉しい時も私が浮かれている時も、どんなときでも一人ひとりのために、あなたがあなたであるために、神様は共にいて一人ひとりを愛して下さいます。
あなたが心を向けるのは、あなたを大切にして下さる神様にだけです。