いつも一緒

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祈り)
天の神様、新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
神様に与えられるもの、それは思いつく全てのものなのではないでしょうか。
自然や空気、命、水、それらの一つ一つの結晶が、私たち人間に与えられている人生一つ一つであるような気がします。
ダイナミックな大自然から、一つ一つの命まで神様あなたの業は数えきれません。
自分たちが理解できて、数えきれる世界しか信じられないちっぽけな私たちでさえ、あなたは大切にして下さいます。
そのような神様、あなたに少しでも多くの感謝をできる私たちでありますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

 

【参照聖書箇所 エフェソの信徒への手紙 2章14〜18節】

実に、キリストはわたしたちの平和であります。(14節)

「二つのものを一つにする」って簡単に言いますが、実は難しいことです。何か多数決で意見が多かった方に少数派が屈するとか、強い勢力に吸収合併されてしまって二つのものが一つになるとは違います。その方法だときっと少なかったり弱い方に、我慢や悲しみや、目には見えないたくさんのストレスを与えることになるでしょう。それらのストレスが目に見えるかたちになった時、私たちの予想を超えた、大きなかたちになって現れることもあるかもしれません。しかし、イエス様は違いました。イエス様は和解をもって、二つのものを一つにされました。誰も我慢や悲しい思いはしません。

ここで言われている「二つのもの」とは、「霊なるもの」と「肉なるもの」です。言い換えれば「見えるもの」と「見えないもの」とでもいうのでしょうか。イエス様は神様と人間の架け橋です。私たちはイエス様が語られるみ言によって、神様のみ心にふれ、神様の存在を知ります。私たちが神様に語りかけ、祈る時は必ず、イエス様のお名前を通します。それなら、イエス様はどのようにして私たちと神様に「和解」をお与えになられたのか。それは、今朝ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所に書かれております通り、十字架においてです。

「死刑にされるのがどうして」と思うかもしれません。しかし、「どうして死刑に、しかも十字架刑に」そして、どうして復活されたのか。肉なるものにとっては「死」は終わりです。しかし、霊なるものにとっては「死」は終わりではありません。

私たちはイエス様に出会い、一人一人それぞれのペースでイエス様に心を開いたり閉じたりしています。一度に理解しようとしたり、解ろうとしなくても、いつも共にいて下さるイエス様が、あなたにふさわしいときに和解を与えて下さいます。そして、一人一人にささやかれます。「あなたは私と新しい命に生きている」と。

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