いつも帰るところ
祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
木々の姿は見ている人々の心を和ませてくれます。
木々は自分が植えられている場所で、ただ神様あなたに与えられる「時」に花を咲かせ、
また、紅葉し散っていき、また命を木の中で育みます。
中には予定通り行かずに切られてしまったり、風に吹かれて折れてしまうような木々もあるでしょう。
しかし、あなたに与えられる「時」の中をそのまま生きて、
どのような姿であっても、木々のように自分を見ている人々をも和ませるような生き方を私たちもすることができますように。
これから語られますみ言葉、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書箇所 ヨハネによる福音書13章1〜20節】
わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(20節)
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所には、イエス様が弟子の一人一人の足を洗う場面が語られており、それは何のためであるかをイエス様ご自身が語られておられます。聖書の語られた時代に「足を洗う」行為は、奴隷によって行われている仕事の一つでした。舗装もされていない道を裸足に近い状態で歩いて旅をして来た客人を家の中へ招く慣習だったようです。現代この日本で「足を洗う」といえば、反社会勢力の一員であることを止めるとかそこから抜け出すとか、なんだかあまり良い意味には取れないようなそんな言葉になります。
しかし、イエス様の行われる一人一人の足を洗われる行為は、弟子たち一人一人をもてなし、関わりを持つという深い意味があります。聖書に書かれている弟子たち、それは、今聖書のみことばに聴く現代に生きる私たち一人一人のことでもあります。私たち一人一人がイエス様のもとへと帰る時、「お帰り」と一人一人の足を洗い、ご自分の腰に巻いた手ぬぐいで拭って下さいます。
私たち一人一人の帰るところはイエス様のもとです。イエス様のもとへ帰る一人一人の魂を、イエス様は待っています。イエス様は何度でも、「お帰り」と一人一人の魂を抱きしめて休ませて下さいます。帰る場所があること、それは生きている一人一人に今を生かされていく勇気を与えてくれます。私たち一人一人にイエス様は関わりを持ち、私たちをもてなして下さいます。
イエス様は言われます。「お帰り、私のもとでお休みなさい。私があなたの足を洗います。」と。