神様から命を与えられて今を生かされて

祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
今、土の中にたくさんの命がいます。この季節、寒さを私たちは感じます。
神様、あなたが私たちに与えて下さる一つ一つの恵みには、平均的な値や重さ、寒さの違いなんてありません。
神様、あなたはいつも一人一人に、十分な恵みや愛を、慈しみをもって注いでいて下さいます。
今日もあなたに感謝いっぱいで過ごすことができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:エゼキエル書9章9〜10節】

主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない」と言っている。(9節)

「何のために私は生まれてきたのだろう。」このような思いを、少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。
「何のために私は生まれてきたのだろう。」私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。

では、イエス様はどうでしょうか?イエス様は、何のために生まれていらっしゃったのでしょうか。イエス様は、十字架の上で死ぬために生まれたのでしょうか。いいえ違います。神様から生をこの世に受け、神様に必要とされて生かされたのです。それは私たち一人一人も同じです。今、生きているのは、今ここであなたという存在が必要だから、神様に見える存在としての命を与えられています。見えない存在として、必要とされ、生かされている命もたくさんあります。

じゃあイエス様と私は同じ?私たち人間は、地上で生きられたイエス様のように生きようとすることもできるでしょう。しかし、神様であるイエス様のように、神様と人間の架け橋そのものにはなれませんが、イエス様と人間を繋ぐ心や祈りを、人々に分けることはできます。私自身がどんなに小さくて弱く感じていても、そのようなありのままのあなたを神様は用いて下さいます。

「何のために私は生まれてきたのだろう。」ではなく、「神様があなたを必要とされているから、今あなたは命が与えられている」のです。