神様の愛に従う強さに今生かされて

祈り)天の神様、私たちすべての一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
どこで目覚めるのか。それはわかりませんが神様あなたは必ず目覚めを与えて下さいます。
こんな私が目覚めてもいいのだろうかと思う時や、目覚めたくないと眠りにつく時、
私たちはいろいろな思いの中、変わらぬ神様からの目覚めや愛、恵みを受けます。
その時の気持ちや感じ方が違う私たちですが、神様あなたからの変わらぬ愛で包まれている自分を少しでも多く感謝できますように。

これから語られますみことばを、この語る者を通して今、聖霊の働きによって聖書から聴くお一人お一人と皆さんの心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたにお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してみ前にお捧げ致します。
アーメン。

【参照聖書箇所:マタイによる福音書27章27〜31節】
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せて、十字架につけるために引いて行った。(31節)」

先ほど、お祈りに覚えましたように聖書を読む私たち一人一人は聖霊の働きによって聖書からみことばを聴いています。私も同じです。だからいくら頭の中で覚えて何度も何度も読んでいる言葉でも、聖書を読む度に聖書からみことばが新しく語られます。

聖書の一節をここに書くまで私の心にいつまでも「愛って何だろう」と繰り返し繰り返し問われていました。赦(ゆる)し、思いやり、共にあること、大切にすること…皆さんにとって、愛って何ですか?
あまり時間がなくてゆっくり考えたことがない人も、照れくさいからあまり考えことないやという人も、「愛」についてなんていろんな理由であまり考えた人はいないと思います。考えた人も少しはいらしたとしても、いろいろな方がいていいのではないでしょうか。でも神様は違います。いつも「愛」について考えておられるというより、いつも「愛」を実践しておられます。誰にでしょうか。それは私たち一人一人にです。神様は私たち一人一人に「愛」を与えておられるのです。

 冒頭に記させていただいたみことばから聴いた時、その節ではイエス様を侮辱した人が特定されておらず、イエス様を十字架につけるために引いて行った人も記されていませんでした。「そんなの聖書の文章の前後を読めばわかるじゃないか。」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、イエス様を侮辱し十字架へと引いていったのは特定の人だけのことではなく私たち一人一人なのではないかと思わされます。

 神様は一人一人の罪を暴いたり特定されたりしません。ましてや裁判にかけるために一人を追求してとことんまで責めるようなこともされません。ただ、神様は一人一人を愛します。一人一人をとことんまで愛されます。そのような神様の愛に従われるイエス様の強さに生かされている今を感謝したいと思います。