何度でも

祈り)天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
神様あなたに心を向けるとすべてが今、あなたから与えられていることに感謝ができます。
でも、私たちには日常の生活の中いろいろなことに心を奪われ、様々なことに心を痛めます。
自分はこんなに弱かったのかと、時には自分にさえも絶望する時もあります。
しかし神様、あなたはどんな私であっても絶望しません、それどころかそのままの私をいつも受け入れて下さっています。
過去の自分も今の自分も、そしてこれからの自分も、そのまま受け入れて下さる神様に少しでも心を向ける時がありますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章11〜13節】
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。(13節)

「キリストの血によって」なんだかびっくりしてしまいますね。イエス様なんて知らなかったのに、そんな私なんかのために?「血によって」ってイエス様が私のために死なれたってこと?そうです、イエス様があなたのために死なれ、あなたのために今も生きておられるということなのです。

あなたが「私なんか」と思っていてもイエス様にとっては「大切なあなただから」なのです。あなたにとって遠く離れているように感じられていたのは神様です。神様が近づいたというより、あなたが、いつも近くにおられる神様に気付くことを赦(ゆる)されたということです。

「私、あの時あなたの側にいたのよ。気付かなかった?」ある日友人に言われ、その時気付かなかった自分に本当にびっくりしたことがあります。それと同時にその時を逃してしまった自分が悔しくてたまりませんでした。「何で気付かなかったんだろう」って後悔の思いが溢れてきました。

でも神様は違います。その時だけ共にいて下さるのではなく、ずっとあなたと共にいて下さいます。いつも近くにいて下さる神様に、あなたがキリストの生き方によって気付いて神様と近しい者となるのです。何でキリストの血が?それは今も生きていらっしゃるキリストの血が私にも与えられていると、今を生かされている一人一人が受け入れる「時」が与えられるからです。神様から与えられる時は「あの時気付いていれば」というように一瞬で過ぎてしまうのではなく神様から与えられる時は、必ずあなたにふさわしい「時」に何度でも与えられます。

神様はあなたを大切にされ、いつも共にいて下さいます。そしてあなたがそれを受け入れてくれることをいつも待っておられます。