今のあなたが
祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
しかし、いつも目覚めを喜ぶことができる私たち一人ひとりではありません。
もう少し目をつぶっていたい現実や、できればなかったことにしたいような出来事が突然起こったりもします。
それが生きているということなのでしょうか。
時々生きていることさえ面倒になる現実もあります。
そのような時でも神様、あなたは私たち一人ひとりと共にいて、共に立ち止まり、共に歩んで下さります。
あなたに生かされ、今というかけがえのない時を与えられていることを思い起こすことができますように
一人ひとりの心を神様あなたがお支え下さい。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン
新約聖書の一番始めから読もうとして、人の名前が、しかもあまり日本では聞き慣れないカタカナの名前がずらずらと書かれていて、「よし、聖書を読むぞ」という決心が何度もくじけそうになった覚えはありませんか?私はあります。確かに新約聖書の一番初めの「マタイによる福音書」には、はじめに神様が造られたアダムからイエス様への系図が、それこそずらずらと記されておりうんざりします。私たちにも先祖をたどる系図を持っておられる方も少なくありません。しかし、この系図はイエス様がこの世にお生まれになられたのだと、聖書を読む私たちへの証しでもあります。
もう一つ系図があります。系図と言っても書き記す必要もないけど大切な系図です。はじめに申し上げた系図が血統を示す系図なら、こちらの系図は信仰を示す物です。
今ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所において「父アブラハム」という言葉がたくさん出てきますが、日本人である私の血統に、果たしてアブラハムはいるのだろうかと考える必要もないのです。「信仰」の系図には時代も国も性別も関係ありません。今あなたは神様を信頼していますか?これだけです。信頼の仕方や態度、そのようなことを他の人が判断することでもありません。「信仰」は比べるものでも差別するものでもなく神様にすべてを委ねます。
この世の価値観が自分の存在を小さいものであるかのように思わせるときもあります。しかし、復活されて今も共にいて下さる神様、イエス様が、等身大のあなたをそのまま受け入れていて下さいます。