いつも変わらず
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
感謝から始まる一日はなんだか素敵な日になりそうなのに、
いつも毎日のようには感謝することができない自分でもあります。
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
感謝から始まる一日はなんだか素敵な日になりそうなのに、
いつも毎日のようには感謝することができない自分でもあります。
ため息で始まる日があったり不安で始まる日、いろいろな日があったとしても
私たち一人ひとり命が与えられているからこそ迎える目覚めです。
私たち一人ひとり命が与えられているからこそ迎える目覚めです。
あなたは誰をひいきするわけでもなく一人ひとりに同じように命を与え、
愛を与えて、この時の中を生かして下さいます。
あなたに少しでも多く心を向けて感謝できる私たちにして下さい。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。(1コリント15:57)
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所において「主に結ばれているのならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたは知っているはずです。」(15:58)と語られています。「そんなこと知らないよ」と思われる方もおられるかもしれませんが「主に結ばれていないものなんて」とは語られておりません。なぜなら、すべての一人ひとりが主に結ばれているからです。だから「たとえあなたが知らないとしても、すべての一人ひとりは主に結ばれているので、一人ひとりの苦労が決して無駄にならないのだ」と語られているのです。
よく私たちは「私の事なんて誰も解ってくれないわ」とか「こんな苦労をして何になるのかしら」なんて思うときがあります。そのような時は孤独を感じたり、まるで自分が悲劇のヒロインになってしまったのではないか、そんな思いをしたりします。しかし、そんなあなたでも主に結ばれています。誰もが解ってくれなくても一人耐えていると思う時があっても、主に結ばれているからあなたの苦労は決して無駄にはなりません。
「朽ちるものと朽ちないもの」という成長や変化をしないものは、私たちが見たり触ったりするものの中であるでしょうか?私たち人間も生まれれば成長します。そしていつかは死を迎えます。その死は成長や変化するものにとってはまるで「終わってしまうこと」であるかのように思いますが、「終わってしまう事」ではありません。なぜなら、イエスキリストが「死」を「終わる事」ではなく、私たちが見えなくても「新しい命へ」とつなげて下さったからです。
自分で負ってきた苦労も、お一人お一人が恐れている「死」も、主に結ばれているすべての一人ひとりには恐れることではないと今、与えられたみ言は私たちに語っています。