微調整|微調整という人の知恵

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クリスマス忙中、眼鏡のフレームを曲げてしまい、視野が二重に見えるようになってしまった。仕方ないので予備の眼鏡を久しぶりに掛ける。するとこちらも微妙だが一瞬二重に見える。「おかしいなぁ」とフレームを見てもほぼ正常。しばらくかけていると通常の視野になるので、そのまま年越し。意を決して先日眼鏡屋さんに行ってきた。眼鏡を手にした店員さんは即座「かなり曲がってますネ」と。「直りますか?」と問う私に、笑顔で「やってみましょう」と。待ち時間も利用して、「今掛けている眼鏡もみてもらえますか?」とお願いすると、手に取って「こちらも微妙ですが曲がってますネ、微調整しましょう」と。そういうことか、二重に見えたのは。見た目には分からなかったが少し曲がっていたからだと納得。だが、その眼鏡をしばらく掛けていると正常に見えていたということは、眼鏡をかける度に私の脳が微調整していたということになる。ありがたいことだと、神様が創ってくださった身体の不思議に感謝である。

話しは変わるが、年明け早々の日曜日、顕現主日の礼拝後にクリスマスの様々な装飾品を皆で片付け、クリスマスシーズンの終わりを実感する。ただし、今年は天井に吊るされた星はそのままとすることにした。天井の小さなフックに引っ掛ける作業は、脚立も使用しなければならないし、見上げながらの作業で首筋を痛くしてしまうが、「我が家の星は一年中かけてあります」というヒントを頂いたからだ。市川で25回過ごしたクリスマス、微調整を繰り返しつつのクリスマスであった。ツリーは生木からイミテーションに替え、命がけで天井から吊り下げていたアドベントクランツは聖壇上へ、クレッシュに宿屋さんを加えたり何度も骨折した羊飼いは継接ぎだらけになりと変化してきた。これからも微調整を繰り返しながらクリスマスの喜びが、この会堂に響き続けることだろう。

二千年を超すキリスト教の歴史は、微調整の繰り返しの歴史でもある。それを良しとさせている根拠は、主イエスの宣教の中にある。例えば、安息日に空腹になった弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めた。すると律法に精通した者たちが「穂を摘むのは労働だ、安息日にしてはならないことをしている」と批判したが、イエスは「安息日は人のために定められた」と一蹴された。律法を否定されたのではなく、変わることのない神の愛を「微調整」して人々に提示されたということに他ならない。

微調整してもらった眼鏡だが、「レンズの傷は微調整できません」ということなので、新しい眼鏡に変えて市川を去ることになりそうだ。

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